笠に蜻蛉をとまらせて歩く

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     「中岡慎太郎記念館前にある像」

<行き交う人々−ひと曼荼羅>


<四国・高知の山深く−おやじの生誕地へ−承前>


徳島県の南部一帯、海沿いに位置する海部郡は6町からなるが、これを北部から数えあげると阿南市の隣町である由岐町、さらに日和佐町、牟岐町海南町海部町とつづき高知との県境に接する宍喰町となる。
ところで海南町海南高校といえば、ゴルフのジャンボ尾崎こと尾崎将司を輩出した学校で、在校時の彼は投手として春の選抜で全国制覇をもたらし海南高校の名を全国に知らしめ、翌年鳴り物入りでプロ入りしたものの野球ではいっこうに芽が出ず、後にゴルフへと転身して大成功、華麗な変身をとげたことはだれでも知るところで、その彼の実家は宍喰町だったとどこかで聞いたことがあるが、現在でもこの界隈では出藍の誉れのごとき郷土自慢の種になっていることだろう。


クルマはやっと牟岐の中心部牟岐町役場にさしかかった。昔懐かしい牟岐駅の駅舎も見えた。
私が小学生から中学生時代にかけて毎年のように帰省していた頃、夜行の船で早朝まだ明けやらぬころに小松島の港に着き、こんどは小松島駅から鉄道に乗り換えるのだが、その頃は牟岐町が終点で、さらにそこから一時間以上は文字通り田舎のバスのご厄介になっていたから、忍従の移動の旅からやっと解放されるのはもう昼近くだった。まえの宵の8時頃から発ってほぼ14〜5時間の長旅は子どもにもかなり疲れるもので、着くなりゴロンと寝ころがってお昼どきを待つというのが慣わしのようなものだった。
高校生ともなるとクラブ活動やらなにやら、それに田舎での川遊びくらいでは急激に社会意識や規範意識に目覚めた生意気盛りの多感な思春期の心が満たされるべくもないから、毎夏の帰省ももはや縁なきものとなってしまい、それからは妹の結婚式のため、というのも偶々夫君の実家が海南町だったからこの地での挙式となったのだが、その時に来たくらいのもので、あとは別な旅目的でなんどか通り過ぎるだけの地と変わり果ててしまっていた。
そういえば、妹の挙式に出席するためおよそ20年ぶりに海南町へ来ることがあり、そのとき私たちはクルマで来たのだが、鉄道の終点だったその牟岐から海南町へと鉄路は延びており、たしか海部町あたりでは高架工事をしていたのではなかったか。やがては宍喰町へも延び、県境を越えて甲浦町へと延びていったのだが、それはさらに室戸まで延びて、高知市から延伸してきた鉄路と一体となって周回の鉄道網が完成するはずだとばかり思っていたのだが、国鉄民営化のあおりだろうか、徳島側からは甲浦で終点となり、高知側では室戸までも届かず奈半利で終点となったまま延伸されていないようだ。そのうえ採算にのらない路線はJR四国からも外され、それぞれ阿佐海岸鉄道土佐くろしお鉄道となっていてダイヤも一時間に一本程度の、はたしていつまで生きつづけられるのかまことに心許ないローカル線となっている。
その土佐くろしお鉄道宿毛駅で今年3月に起こった電車の駅舎突入事故は、駅舎エレベーターに突っ込んでやっと停まった電車の衝撃映像が記憶に残っているが、翌月25日に起こったJR西日本福知山線脱線事故が死者100名を越え負傷者にいたっては500名を越える空前の惨事となり、連日の悲惨な報道ラッシュのなかで、駅舎突入のその衝撃映像の記憶だけが断片として鮮明に残るものの、あれはどこのどんな事故だったかとその事実関係は遠く後景へとおしやられて想起することさえかなわない。まことに記憶というものはたえず新しく想起されなければ反覆強化されることもなくあっというまに忘却の彼方へと消え去っていくものだとつくづく思い知らされる。


牟岐から海南町を経て海部川に架かる橋を越えると海部町の中心部奥浦だが、ここを通りかかったころにはすでにもう九時半になっていた。海部川が海に流れ込んでできた小さな三角州の南側が奥浦と鞆浦なのだがその境界には海が入り組んできて運河のようになっている。幼いころのおやじが祖母と二人きりで生地だった高知県北川村の竹屋敷を出奔して、十代半ばまでの少年期を過ごしたのはてっきり奥浦だとばかり私は思いこんできたのだが、こんどの訪問と戸籍関係をたどったところどうやら隣町の鞆浦説が有力になってきた。私の思い込みには私自身の幼児のころの原記憶ともいうべきあの懐かしい一コマが関わっていて、ひょっとするとそれをも書き換えねばならないのかもしれないが、このことについてはあらためて触れることにしてひとまず先を急ごう。
国道55号線宍喰町にさしかかると海岸線に沿って走ることになる。海側は砂浜のつづく松原海水浴場となってその真ん中あたりに宍食温泉がありその横にはかなり豪華そうなホテルも併設されていたが今はのんびりと寄り道していくほどの余裕などない。松原がきれて宍食大橋を渡って隧道をぬけると、東洋町甲浦、いよいよ高知県に入ったわけである。甲浦といえば明石大橋が開通するまでは甲浦フェリーといって大阪や神戸からの便があったちょっとした漁港で、開通後もしばらくは運行していたようだが四年ほど前にとうとうなくなってしまったらしい。磯釣りなどの釣り人たちには牟岐の大島やこの甲浦はいまでも馴染み深い場所にちがいないだろうが、マリンレジャーや釣りなどにはとんと縁のない私などにはただ通り過ぎゆくのみの衆生でしかない。東洋町の海岸沿いの北端が甲浦で南端には野根という在所があり、55号線はこのあたりから室戸岬にかけてはずっと海岸沿いの道がつづくのだが、今日はこのコースをとらないで、野根川の袂で右折して国道493号線へと入っていく。この野根町から山越えで尾根づたいにいく奈半利町までの44kmの道は、いまでこそ国道493号線というが古くから野根山街道と呼ばれ由緒正しき道(?)であるらしい。なにしろ718年というから養老年間だが、土佐の国で最初に開かれた街道で、国司、流人の移動、調庸物搬出の道として利用されたというのだからたしかに由緒ある歴史の道である。江戸時代の参勤交代もこの道を通ったといい、宿屋杉という大杉もあり関所跡もいまに残している。鬱蒼とした樹木に囲まれた山道をぬけて小川川の渓谷に出ると北川村だ。目的地の竹屋敷はその川の上流に沿って山深くに入ってゆくのだが、まずは北川村役場をめざして渓谷沿いの野根山街道をさらに下ってゆくとやがて小川川は本流の奈半利川と合流するが、その川沿いにつづく街道を10km余り走ったろうか、やっとめざす村役場に到着したのはもう十一時近くになっていた。


役場でおやじの祖母の除籍謄本を申請して貰い受けた。750円也。「いまも、この竹屋敷という集落には何軒ほどの世帯が住んでいますかね。」と尋ねたら「さあ、登録上は二世帯なんですが、実際はどうかなあ?」と些か心許ない返事。役場の前には村に一つしかない小学校と中学校がなかよく隣接してというより校門こそ違えて一体のように建っている。小学校の児童数89人、中学校の生徒50人。総人口1575人で647世帯、奈半利川沿いに26の集落があるというが、半数近くがこの役場のある野友という地域一帯に住んでいるのだろう。近頃問題の郵政民営化の特定局がこの近くともう一箇所、平鍋という集落にあるだけだ。休憩がてらに入ったごく普通の民家の構えだが門前に喫茶の看板が立つ家の主人に聞いた話だが、「竹屋敷に以前は営林署の出張所があったが十数年前にそれもなくなって、今ではどの家も廃屋になってしまっているのじゃないか、さて住んでいる家があるのかよう知らんな。」とのこと。
一休みして少し元気が出たからまたクルマに乗ってこの近くにあるという中岡慎太郎の生家に立ち寄ってみる。道沿いにある記念館にクルマを停めて銅像を眺める。小高くなった道路から眼下の川べりのほうには復元された生家らしい茅葺の屋根が見えるが、幼な児を抱いて急な坂道を降ったり登ったりはまだ先の旅程もあるのでやめておく。僚友坂本龍馬とともに京都近江屋で暗殺された中岡慎太郎は北川村一帯の大庄屋の家に長男として生まれたという。龍馬はたしか郷士の倅だったが慎太郎は百姓とはいえ豪農の跡取り。幼いころから近在の私塾で学問を積んだのち、武市半平太に私淑し討幕運動へと身を挺していったのだが、道半ばにして凶刃に倒れたわけである。時に龍馬33歳、慎太郎30歳の若さだった。


もう十二時をとっくに過ぎてしまっている。本来の目的地、おやじの生地である竹屋敷に向かわねばならない。奈半利川に沿ってもときた野根山街道を走らせる。小川川の渓谷沿いへとわかれて平鍋という集落にさしかかると村に二つしかないという一方の特定郵便局があった。念の為、クルマを停めて局員に尋ねてみると、竹屋敷にはいまは一軒だけだが住んでいる世帯があるという。道は川沿いに車もあまり通ることもないが走れないことはない、注意していけば大丈夫とのこと。ほっと一安心してまた走らせる。野根山連山の山道にさしかかる分かれ道にきて深い山間の谷を流れる小川川を左にのぞむように北へと入ってゆく。
川沿いといっても左右から迫りたった山間を走る林道はほとんど谷底の川の流れも見えず細い峠道を走っているようなものだ。5kmほど奥へと入ったあたりで谷川と出合うと川向こうの山裾に家が十軒ほど寄り合うように立つ集落が見えたが、これは尾河という在所か。しかしこの集落にもはたしていまも人が住むのは二軒か三軒か、殆どは住む者もない廃屋と化しているのだろうなと思いつつ、さらに奥へ奥へと走っていくとこんどは川と接するようになった道沿いの右側がほんの猫の額ほどの広さでゆるやかな斜面になっていて、やはり十軒ばかりもあるだろうか家々がある。
ホゥーと思わず一息吐いた。アー、やっと着いた。そう此処が竹屋敷だ、高知県安芸郡北川村字竹屋敷、おやじの生誕地である。そしてものごころつくかつかないかの幼年期を過ごした、此処がその故里なのだ。 (つづく)


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