山ふところのはだかとなる

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    高知県北川村竹屋敷にて」

<行き交う人々−ひと曼荼羅>


<四国・高知の山深く−おやじの生誕地へ−終章>


高知県安芸郡北川村字竹屋敷。
風もなく真夏の陽射しが照りつける小さな山里は、谷川の流れる水の音のほか、森閑として聞こえるものとてなにもない。人の気配もまったくしない。クルマから降りて歩いてみる。少し奥まったところ、細くなった川に石橋が架かっていて、その石橋の向こうの道沿いに一軒の民家らしからぬ建物が見える。「はぁ、そうか、これが営林署の出張所の跡かもしれないな」などと考えてみる。林道は細くなってさらに山深くへと延びているがこれ以上クルマを走らせるのはおよそ危険というものだろう。と幼な児の手を引いた連れ合いが明るい声をはりあげて私を呼んだ。振り返ってその指さすほうを見ると、小さなしもた屋に酒の看板と「林田商店」という文字。これにはちょっと吃驚したが、そういえばおやじは竹屋敷というのは林田の姓が多かったと言っていたことがあった。みんな遠い親戚みたいなものだったんだろうとも。また竹屋敷は平家の落人部落だったと言っていたこともあったが、こちらのほうは私はあまり真に受けてはいない。九州にしろ四国にしろ平家の落人伝説は山里深いところならいたる処に点在している。そういった集落ではご丁寧に家系図まで贋造してまことしやかに主張している場合もあると聞いてきたから、私はその手の話は大きく疑問符を付けておくことにしている。いずれにしてもおやじと同じ林田姓の、おそらくは親戚筋であろう家がこの「林田商店」の主であるのはまちがいないのだろう。おやじ所縁の土地や家々にこうしていま近しく接していることに胸が熱くなるのを覚えた。しかしおやじがはたしてどの家で生まれたのか、そんなことはもうどうにも探しようもないし確かめようもない。ひとつひとつの家をなにか懐かしいようなものを見る心地で放心したようにただただ眺めやるのみだ。
そうやってぼんやりと歩いていると、突然、犬の吠える声がして幼な児が怖がって泣き出した。犬の姿は見えないから繋がれているのだろうか。声高に吠えるのはいっこうに止まない、私らの気配が遠のくまで鳴き止まないだろう。と道端に面した一軒の家に洗濯物が干してあり、子ども用の小さな自転車もあった。ああ、此処に、さっきの郵便局で聞いたとおり、この家だけ人が住んでいるのだ。しかし家人は出払っているらしく人の気配はなく、犬の吠える声がなおつづいているのみだ。それにしてもこんなに人里離れた山中深くに子どものいるまだ若いらしい家族が住んでいるのだとしたらいったいどういうことなんだろう。たとえUターン組だとしてもなにか特別な事情でもないかぎり、こんなところに一軒だけで住むというのは侘しいとか淋しいとかいうまえに暮し向きさえどうやって成り立つのか、およそ都会の下町に生まれ育ってきた我が身には想像の埒外というものだ。


それにしても、竹屋敷というこの場所、此処はおやじが生まれたという明治44年、あるいは幼年期を過ごしたと思われる大正初期の頃は、今から90年ほど昔はいったいどんな在所だったのだろうか、とふと捉えどころもないような想いがよぎる。
そんな想いに関連して、近頃、赤坂憲雄の「山の精神史」という民俗学者の本を読んでいていまさらながら気づかされたことなのだが、日本民俗学創始者とされる柳田国男がとくに人口に膾炙されるあの「遠野物語」を書いて世に出したのが明治43年だったという事実に、おやじの生い立ちなどについていろいろと想いをめぐらせていた私は、柳田の遠野物語の世界とおやじの出生地竹屋敷とが同じ頃のことではないかというなんでもない符合に、はっとさせられたのである。遠野の世界は東北の岩手県遠野地方の古老たちからその地に伝わる説話や異界譚、山の民やムラの習俗などを柳田が聞き書きしてまとめたもので、出版されるや大いに衆目を集めるものとなったということだが、柳田はこの「遠野物語」出版の前年、明治42年に「後狩詞記」という書を初版出版しており、「遠野物語」とはちがってこちらのほうは九州宮崎県の山間部で日向奈須と呼ばれる椎葉村の村長自身が柳田に語ったとされる話を、柳田は著書としてではなく報告記のかたちで出版したものだという。平家落人伝説の残された椎葉村村長が柳田に語ったという「後狩詞記」の内容はといえば、山の民としての信仰や習俗、狩猟や焼畑、樵、木地師などの暮らしぶり、とりわけ毎年四、五百頭を数えたという猪狩りなど猟師としての実態についてというものらしい。
柳田は後の自著「故郷七十年」というエッセイで、「明治41年、九州と四国に行った。5月下旬から約三ヶ月に及ぶ長旅で、内地における私のいちばん長い旅行であった。」と書いており、この旅の徒次に「後狩詞記」出版となる椎葉村村長宅での一週間の滞在があったということである。
柳田の九州・四国への三ヶ月におよぶ長旅のなかで、高知の山深いこの竹屋敷に立ち寄ったかもしれぬという可能性について考えるべくもないが、当時の「遠野物語」に代表されるような民俗学が照射した世界、そこに描かれた山の民たちの伝承や習俗の世界が、そっくりそのままこの竹屋敷という地にあてはまるものではないにしても、類似の響きあうような日々がこの地で営まれていたであろうことは疑いのないところと推測される。そういえば、私が小さい頃は我が家に、おそらくこの地の親戚筋の人からであろうが、毎年のように猪の肉が届けられて、これがくるときまって二日ほどは夕餉にシシ鍋がつづくという、そんなことを思い出したが、この符合を考えてもこの地の人々の昔からの暮らし向きは猟師としてがその本分であったろうし、加えて明治初期からの山林の国有林化制度のなかで山林の保全と育成のため日本各地に営林署が置かれ、その支所や出張所がさらに山深い集落付近に置かれ、林道が開かれていき、猟師や樵としての暮らし向きもゆるやかに近代化への変容を被っていったのだろうと思われる。調べてみれば竹屋敷に営林署の出張所がはじめて置かれたのは明治19年で、昭和61年にその役目をおえて閉ざされるまでちょうど100年の間あったことになるが、この営林事業関連の業務がこの竹屋敷の住民たちの暮らし向きに陰に陽に作用もし、また一時代の活気を呈したこともあったろう。おやじはその父の存在をまったく知らぬといういわば私生児であったが、おそらくこのこと自体に営林署出張所の存在が深く関わっていたであろうことは想像に難くないというものだ。
実をいえば、柳田民俗学が描いた山の民たちの世界が、おやじ生誕の竹屋敷の地もまたこれに類縁する世界だったのではないかとの想いが私の脳裡に浮かんできたとき、どうしても我が眼でたしかめるべくこの日帰りでのおやじの故里訪問の旅が企図され、やもたてもたまらずこの日の強行軍となったのだった。


一度きりの、もうこの先ふたたび訪ねくることはないであろう竹屋敷を立ち去り、帰路についた。
途中、もう一箇所、この眼でたしかめるべくおふくろの生家へ立ち寄った。海部町奥浦まで戻って海部川の南岸を5kmほど走ると、バス停近くの道沿いに二軒並んだ家がある。手前の一軒は見慣れない大きなプレハブの家に変わっていたので些かとまどいを覚えたが、隣の民家は子どもの頃なんども訪れた懐かしい佇まいそのものだった。だが隣地もおふくろの生家の周囲も草は伸び放題で荒れ果てた印象は否めない。
「ほら、母屋の裏に小さいけど二階建ての離れのような家があるだろ。あれは親父が建てたんだよ。だからではないけど、お倦怠みたいにして毎年のように此処へ遊びに来れたんだ。」と指さしながら連れ合いに説明すると「へぇー、そうなんや」と感嘆しきり。当時はおふくろの末の妹が婿取りをし三人の娘をもうけて住んでいたその母屋も表札こそかかったままだがだれも住んでいるような気配はない。隣はたしか夫婦と私より4歳上の一人娘の三人家族だったはずだが、せっかく新しく建て替えただろうに住む人もないらしく荒れるにまかせているといった感じだ。先刻の竹屋敷のようにもっと奥まった山里ならともかく海岸からたかだか5kmあまり離れた川辺のバスも通っている道沿いで、二つ並んだ家が主もなく荒れ放題なのはいかにも淋しすぎるし勿体ないような気がするというものだが、21世紀の日本の田舎風景にはもうあたりまえの光景としてどこにでもあることなのかもしれない。
その昔、海部町は川西村といった。おふくろの旧姓も「川西」だったから子ども心にその符号がおもしろくいろいろ想像もしたのだけれど、しかしおふくろの父、私には祖父だが、これは本家ではなく分家だったらしいし、本家と呼ばれる家も同じ集落の奥のほうにあるらしかった。いずれしても本家も分家も庄屋格といったものでもなく豪農といったものでもないようだから、この川西姓がそう由緒あるものではないと思われる。おそらく明治の苗字制度で生れたにすぎないのだろうが、川西村の住人だから「川西」と名のった人たちはかなりの数にのぼったのではないか。おふくろの生家もそのうちの一つだったのだろうと私は勝手な推測をしているのだが‥‥。
小六の夏だったか、せっかく遊びにやってきたのに台風のもたらした大雨で川はあふれ濁流と化し、水嵩は堤防の高いところにおよびドォードォーと音立てて流れているし、雨もまた降りつづいたりするから一週間あまり家に閉じ込められたまますることとてない。おかげでその夏は祖父の本棚にあった立川文庫の古い講談本を片っ端から読みつくしてしまい、おかげで講談ものの世界についてはなんでもござれの博学の徒となった。困ったことにこういう時に身についてしまった知識(?)はいつまでたっても消えることなく残っているもので、残ってほしいと思う知識は記憶のどんどん深いところへ降りていって呼び戻しようもなく身につかないままだ。


その生家や周辺を写真におさめて海部町をあとにしたのはもう午後三時半を少しまわったころだったろうか、あとは往路と同じコースを引き返すのみ。途中、徳島市内の県庁前付近で1kmほどの渋滞にあったが思ったほどの時間も要さず抜けられて鳴門ICへ。往路で立ち寄らなかった淡路ハイウェイオアシスでゆっくりと休憩をとり、黄昏どきの明石海峡大橋をなどを飽かず眺めたうえで帰路に着いた。
第2神明も阪神高速もスムーズに流れて、我が家への到着はちょうど午後九時ごろ。延べ16時間、走行距離は590km余りか。さすがにぐったりと疲れ果てた一日だった。オツカレ、私に付き合わされた家族もお疲れさま、ほんとにお疲れさまでした。


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