橋とゞろ水は流るとなく流る

<風聞往来>


秋浜悟史さんの急死に想う>


劇作家として演出家として関西にも多大の足跡を残した、秋浜悟史氏の訃報を思わぬ意外なところ−Nadjaさんの記事−で知った。
ネットの訃報記事で確認したところ、「7月31日、転倒による脳挫傷で死去、享年71歳」とあった。まだ現役で演出に講座に多方面で活躍していたのに突然の事故のような急死である。関係各所には大きな衝撃が走っているものと推測される。
ある記事の略譜によれば、「岩手県生まれ。早稲田大学で学生劇団「早大自由舞台」に参加。岩波映画製作所を経て、劇団三十人会を主宰し、東北方言を自在に使いこなした「幼児たちの後の祭り」で、1969年岸田国士戯曲賞を受賞した。」とある。
そうだったのか、出自が東北であることはその初期作品から匂いたつほどに感じられたから岩手県というのはいかにもさもありなんだが、早稲田の自由舞台に参加していたとなれば、別役実鈴木忠志の何年か先輩ということになる。やはり50年代から60年代にかけて早稲田の自由舞台が「新劇から演劇へ」の転換に果たした役割は大きいのだと再認させられる。ここから輩出した小劇場運動の旗手たちの存在は、世界の演劇事情がずいぶんと狭く感じられるほどになった現在へと、導火線ともなったであろうし、いまなお重い役目を担っているだろう。
藤田あさやと秋浜悟史を擁した「劇団三十人会」は、新劇から演劇へと転換していくその端境期を百花繚乱のごとく彩った60年代演劇のなかでいささか地味であったとしても独自の存在感を示していたように思う。
69年に彼の劇作「幼児たちの後の祭り」が岸田戯曲賞を受賞した際には、この作品にいたるまでの諸作品の成果に、との言葉が付されている。これは秋浜が「さじきっぱら」や「冬眠まんざい」など実験的ないくつかの小品を作・演出し積み重ねてきたうえに「幼児たちの‥‥」へと結晶させた成果を充分意識した評言なのだろう。
「劇団三十人会」がいつどのような事態で解散されたのか、寡聞の私には不明だが、秋浜悟史は80年前後、大阪芸大からの教授招聘や兵庫のピッコロ劇場における指導活動などからか、その主な活動拠点を関西へと移し、奈良市内に居住するようになる。
この二十数年、彼の薫陶を受けた若い演劇人が数多く育って、関西の演劇地図を塗り替えてきたといっても過言ではあるまい。
まだまだ、仕事をしなければならない人であった、と思う。
胸中、アレもコレもとさまざまなやりたいことのイメージが渦巻いていたことだろう。
無常は世の常だとしても、残念である。
‥‥ 合掌。


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