踊太鼓も澄んでくる月のまんまるな

980906-037
  「サンセットパーティのヤグラ風景」


<日々余話>


<盆踊りの音が聞こえる>


盆踊りの音が聞こえる。
そういえば今日の夕刻、近くの公園で盆踊りのヤグラが組まれ提灯がいっぱいに張りめくらされていた。
どうやら今夜と明夜の二日間、地域の盆踊り大会があるらしい。
ひとしきり祭りのシーズンが終ると、8月末近くまでは地域のあちこちで盆踊りがくりひろげられる。
そういえば、近頃のように盆踊りといえば河内音頭で明け暮れるというようになったのはいつ頃からなのだろう。嘗てはもっと地域々々でそれなりのカラーがあったかと思うのだが、此の頃は大阪府下のどこでも河内音頭の音頭取りを招いてそれをメインとしているようだ。
おそらく一時は盆踊りがずいぶん衰退した時期があったかと思う。戦後60年でいえば高度成長期だった60年代や70年代はむしろ衰退期にあたったのではないか。
80年代の時ならぬ漫才ブームからエンタティメント志向が非常に強まってくるのだが、ビジュアル・カラオケの登場は一億総タレント化へ拍車をかけた。
80年代は一方で身体ごと燃焼発散することのブームでもある。若い者はディスコに、中高年は民踊にと棲み分けされていたものが。境界が曖昧になり互いに侵犯していくような現象が起こってくる。河内音頭の踊りもリズミカルになりディスコ風な振りがどんどん採り入れられる。92年にはよさこいソーラン祭りが生まれ全国各地にひろがってゆく。


大阪のそれも河内という一地方に歌い継がれてきた民謡にすぎない河内音頭を全国的なものにしたのは大胆にそれをアレンジした鉄砲光三郎の鉄砲節だった。昭和36年のことである。だがそれはあくまで歌謡の世界、民謡の世界としてであり、盆踊りのレパートリーとして、民踊としてどれほど浸透し広まったかといえば、歌謡の世界のようにはまったくいかなかった。先述したように盆踊り自体がどちらかといえば下火だったからともいえるだろう。
しかし、近頃のように大阪府下はおろか相当の範囲でも盆踊りといえば河内音頭がメインレパートリーとなるには、一時的にせよ全国的にブームを起こした鉄砲節の存在が大きく伏線となっているのだと、私は思っている。


私は以前、大阪市内の港区で、サンセットパーティなるイベントを十数年の間、企画運営の中枢として取り組んできたことがある。実はこの催しはある市会議員による後援会向けのパーティなのだが、これをだれもが参加でき且つ大いに楽しめる一夜を演出するべく、場所はちょっとした体育館なみの室内空間なのだが、そこにヤグラを組んで輪になって踊る、それも河内音頭で盆踊りをと銘打って、これをパーティのクライマックスとするように企画した。この企画は図に当たった。評判を呼んで回を追うごとに参加者が膨らんでいった。たしか89年に初めて、この形式は一昨年までそのまま踏襲され続けられてきた。現在、この議員は5期目のベテラン議員となっているが、かように企画が当って成功する場合、むしろワンパターン化して偉大なマンネリズムとなっていくものである。目先を変えるのはそのマンネリズムのうちにあってほんの少しだけ新鮮味を加えるだけ、というくらいでちょうどいいのだろうと思われる。
大きな変化、時代の変化というようなものははっきりと潮目みたいなものがあるのだ、といえそうである。広い視野でそういう潮目を読みつつ、ワンパターン化したマンネリズムのなかでほんの少しだけ新鮮な工夫をしていくというのが、イベント企画の要所かとおもう。
地域の盆踊りも、時代の潮目とマンネリズムのなかで少ながらず変容しながらこれからもずっと生きつづけていくようだ。


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