めつきりふえた白髪剃りおとす

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<古今東西−書畫往還>


茂木健一郎「脳と仮想」が小林秀雄賞に>


 <クオリア>−意識のなかで立ち上がる、数量化できない微妙な質感−をキーワードに脳と心の関係を探究しつづけているという脳科学者、茂木健一郎「脳と仮想」に本年の「小林秀雄賞」が与えられたという。著者の茂木健一郎は1962年生まれというから43歳、昨今注目の人である。「クオリア日記」というブログを彼自身が日々の報告記として書いている。
受賞の「脳と仮想」は昨秋出版され、私も11月頃に読んだものだが、評論エッセイとして独自のクオリアという科学的知を文芸の世界へと解き放ち横断してみせるその手際が些か洗練の行き届いたかにみえて、私などには以前の著書「意識とはなにか−<私>を生成する脳」(ちくま新書)のほうが知見の新鮮さと魅力がストレートに伝わったと思われたが、それにしてもひろく読者を得るに足る書ではある。
その意味では受賞という栄誉はまことに喜ばしいことである。


 新潮社主催の小林秀雄賞の選考委員構成は、加藤典洋河合隼雄関川夏央堀江敏幸養老孟司の五氏となっているが、面白いことに選考対象となる候補作について事前に公開することなく選考会議に諮られ決定されるらしい。ということはノミネートされていることを著者本人たちはいっさい知らないから、やぶからぼうに受賞の報せを聞くことになる。突然の報せを受けて驚きや悦びが錯綜する受賞者の対応ぶりに人間臭さもあらわれて、このあり方も一興かと思わされた。


 本書がどんな世界を開示しているか、ひとつの章をメモ的に要約紹介すれば以下のようなものである。<生きること、仮想すること>
−考えることと感じること−アメリカ在住のある認知発達の研究者は、時に「科学者としてではなく芸術家として」考えるということをモットーとしている。考えることと感じることは、原理的に必ずしも対立しているわけではないが、実際にはしばしば、科学的方法を通して世界を把握することと、感じることを通して世界と出会うことの間には、主観的体験としての断絶がある。
−傷つけられ得ること−個別性に寄り添って生きるということは、時に傷つけられることが避けられないということを意味する。傷つけられてしまった事実から逃れられない状況の中で、生きつづけなければならないことを意味する。実際に傷つくことと同様に、傷つけられる可能性自体が、生きるうえでの切なさに通じることがある。
−芸術は、人の心を傷つけることで感動させる−一見逆説的なことに、すぐれた芸術作品は、どこか、人の心を傷つけるところがある。
−傷を受けての脳の再編成−ある体験から心に傷を受ける、それはその体験によって生じた脳のなかの神経細胞の活動によって、脳が大規模な再編成を余儀なくされることである。記憶の対象の取捨選択は、脳の扁桃体を中心とする情動系と、海馬を中心とする記憶系の相互作用によって行われていると考えられる。適当な形で心−脳−が傷つけられることで、その治癒の過程としての創造のプロセスがはじまる。脳は傷つけられることがなければ、創造することもできないのである。
−心が受けた傷から放射される仮想−人間は、なぜ「平和」という仮想を生み出さなくてはならなかったのか。「愛」という仮想は、「極楽浄土」というヴィジョンは、どのような生の必然性から生み出されたのか。私たちの意識のなかで生み出されるさまざまな仮想は、このうえなく厳しい人間の生存条件のなかで、私たちの心が傷つき、その傷が治癒される際に放射される光のようなものではなかったか。
−救済の問題−仮想によって支えられる、魂の自由があって、はじめて私たちは過酷な現実に向かい合うことができるのである。それは意識を持ってしまった人間の本性というものなのだ。


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