まことお彼岸入りの彼岸花

N-040828-076-1


<身体・表象> −12


芭蕉、蕪村、一茶の三様態>


 加藤楸邨氏は著書「一茶集句」のなかで、芭蕉、蕪村、一茶の句の世界を対照して、詩人の発想を三つの型に分類している。
芭蕉には「滲透」型、蕪村には「構成」型、そして一茶には「反射」型とそれぞれ冠している。


 「松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ」といった芭蕉の言を引いて、門人の土芳が「習へといふは、物に入りてその徴の顕れて情感ずるや、句となる所なり」と言っているが、その意は「対象に立ち向かったら、その真実に感合滲透せよ」ということだと楸邨はこれを観る。「物に入る」というのは、対象と一つになること、この場合そうして燃焼することかと思われるが、「感合」という語は辞書にもない。字面からその意味するところは自ずと立ち上がってはくるが、楸邨独自の造語だろうか。対象に向かいあい、対象と一つとなれば、自ずとその真実は「徴−きざし」として表に顕れてくるものだ。そこに作者の詩情が感合し、句は生れ出るということになろうか。
楸邨は人口に膾炙した著名な句
  秋深き隣は何をする人ぞ   芭蕉
を引いて、これを素直に味わってみれば芭蕉の「滲透」型というのも肯けるだろう、とする。


 楸邨曰く、芭蕉の「情」は、ひたおしに明日に向かって探究の歩みをつづける途上にあった。しかし蕪村の「情」は、顕わにおしすすめるにはあまりにも濁った時代を拒否していた、と。元禄期の芭蕉天明期の蕪村には百年の年月に隔てられている。俳諧蕉風の完成へひたすら歩みつづける芭蕉の時代とは歴然と異なっていたのだ。蕪村は弟子の召波に向かって「離俗」を説いた言葉に、「多ク書ヲ読マバ、書巻ノ気上升シ、市俗ノ気下降セン」と教えている、と楸邨は引く。この言は、絵画も能くした蕪村が、当時の画法論としてあった「去俗」から採ったものと思われる。俗を離れるために、書物の高雅な世界に浸れば、上に清らかな気が澄み、濁った世俗の気は下に沈んでしまう、というような意であろうか。楸邨は蕪村の句について、市俗のなかに終始するのではなく、そこから脱出して感覚を支えとした美の世界を構築するもの、と特色づけ、
  白梅に明くる夜ばかりとなりにけり   蕪村
  冬鶯昔王維が垣根かな          々
は、蕪村臨終に近い句であるが、俗を離れて構成されたかぎりない美しさがある、とする。


 さて最後に一茶だが、その時代は芭蕉に遅れること百五十年、蕪村に遅れること五十年、農民や町人文化の栄えたいわゆる化政期である。芭蕉に倣い、蕪村に倣いと、いくら先人に倣ったとしても、時代の刻印はあまりにも異なり、もはや芭蕉にも蕪村にもなる訳にいかないのも自明である。一茶の発想は滲透型にも構成型にも該当しえないし、する訳にもいかないということだ。楸邨曰くは、芭蕉風も蕪村風も、一茶の数多い作品のなかから数え上げることは可能だ。しかし、それは多くの場合、学んで得たもので、彼本来のものではない。一茶本来の発想は、軽快な口拍子に乗せた反射的なものだ、としさらにつづけて、一つの句を徹底的に追いつめていく芭蕉の推敲とは違って、一茶の改案過程は、その時その場で完了してしまうものなのである。明日の世界への現実での感合滲透や、脱出による美の世界の構成などもてなかった一茶には、偏った我の強い感情と無垢な童心との分裂したままの形で、一事一物、反射的に受容し、そこにばらばらに自己を封じ込めるほかはなかったのだ、と解する。
晩年、ようやく手に入れた故郷の家が焼失した時の句、
  焼け土のほかりほかりや蚤さわぐ     一茶
を挙げて、そうして辿りついた世界のほのかな明りなのだろう、と締める。


 さて、「滲透」、「構成」、「反射」と三様の発想タイプに分類されたのだが、類似の分類法としてたとえば「直観」型、「論理」型、「感覚」型、「感情」型など挙げられるかもしれないが、この場合あくまで、芭蕉、蕪村、一茶の三者を対照しての前提からあまり遠くへと抽象、普遍化しないほうがよいのだろうと思われる。どこまでも彼ら三様の句世界に即しつつ、三様のタイプとして受容観照するというに止めるのが肝要だろう。


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