くりやまで月かげの一人で

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<怨霊譚−維新でも怖れられた崇徳院>

 小倉百人一首に「瀬をはやみ岩にせかるる瀧川のわれても末にあはむとぞ思ふ」の歌をのこす崇徳院が古来より怨霊神として怖れられてきたのはつとに知られている。「崇徳院御託宣」という書が今もなお宮内庁に残っているらしい。これによれば崇徳院の怨霊は九万八千五百七十二の神とその眷属である九億四万三千四百九十二の鬼類の頂点に立っているというからもの凄い。
 平安後期、崇徳院鳥羽天皇の第一皇子として生まれたが、その実は、鳥羽天皇の祖父白河法皇の胤であった。鳥羽天皇はこの出生の秘密を知っていたが時の権力者である法皇に逆らえず第一皇子として受け容れた。崇徳院は5歳のとき即位して天皇となるが、数年後、白河法皇が死に、権力は鳥羽上皇へと移り、やがて崇徳院の母とは別の女とのあいだに新しい皇子を得た鳥羽は、崇徳院に退位させ、わずか2歳の皇子を即位させ近衞天皇とした。15年後、この幼少の天皇は17歳で早世するが、その死の背景に呪詛事件が絡む。次の即位をめぐり鳥羽上皇崇徳院のあいだで暗闘があるが、ここでも鳥羽上皇の意志で後白河天皇の即位となった。ところが翌年、鳥羽上皇が病死したので、これを機に後白河天皇崇徳院、これに摂関家や台頭する武家勢力を巻き込んだ保元の乱(1156年)が起こるのである。勝負はあっけなく崇徳院側の敗北。崇徳院隠岐に流され、後に讃岐に移され、配流のまま非業の死を遂げ、讃岐国白峰山に火葬された。
 現世に烈しい怨恨を残したまま逝った崇徳院は、以後、怨霊・祟り神として伝説化してゆく。都に変事や疫病があれば、崇徳院の祟りとされ、また当時の天狗信仰とも結びつけられ、虚構は虚構をうみ肥大化する。やがて崇徳院の怨霊は天狗の統領とされ、太平記にはこれを筆頭に「天狗評定」の件が登場する。江戸期の上田秋成は「雨月物語」の冒頭に崇徳院の怨霊譚を「白峰」と題して虚構化している。諸国を旅する西行が讃岐の白峰の陵を訪れた際、崇徳院の亡霊が現れ、怨みの数々を切々と語るという怪異譚で、能仕立ての構成だ。
 時に明治維新、王政復古の到来に、孝明、明治の両天皇崇徳院の怨霊が祟ることを怖れ、彼の霊を招魂し祀ったのが、京都堀川今出川にひっそりと佇む白峰神宮である。維新後の神風連や各地の叛乱、西郷隆盛西南の役など、或いは日清・日露の戦争勃発までも、明治天皇は心中秘かに、崇徳院の怨霊や祟りが影を落としていると思ったかもしれない。


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