萩が咲いてなるほどそこにかまきりがをる

051023-135-1

<四方館ダンスカフェのお知らせ>

ダンス・カフェ第三弾の日程が決まったので以下ご案内する。

Dance-PerformanceとFree-Talkの一夜

「Transegression−わたしのむこうへ」

日時−11月29日(火) 午後7時open
場所−フェスティバルゲート4階COCOROOM
参加費−1000円(フリードリンク込)

詳細は<コチラ>をご覧ください


ここにあらゆる表現行為に通じる一考察、否、人が生きるなかでのすべての行為を表象の位相で捉えなおすならば、およそ人のなすあらゆる行為にも通じる考察というべき掌編を紹介したい。
市川浩がその著「現代芸術の地平」岩波書店刊の冒頭に掲げた短い一文だが、煩瑣を省みず全文を引用掲載する。

<線についての考察>

 空白にひかれた一本の線ほどおどろくべきものがあろうか? それはどのような出来事にもまして根源的な出来事であり、世界の誕生を――ものとしるしとの誕生を告げている。

 それはものである。一本の線はわれわれの視線を吸収し、もろもろの存在を背景へと押しやり、動かしがたいそれ自体の存在を主張する。それは何ものをも、自己以外の何ものをも指示しないのである。

 それはまたしるしでもある。一本の線は空白を分割し、みずから背景へとしりぞくことによって、空間を生みだす。あたかも永遠に逃げてゆく地平線のように、それはもっぱら天と地を、世界の区画を、彼方と此方とを指示するのである。そして幾何学上の線のように、自らはものとしての存在を失おうとする。

 しかし一本の線は、単にそれ自体で存在するのでもなければ、もっぱら空間を分割するのでもない。それは同時に空間を結合し、天と地を、彼方と此方とを、分かちえないものとして溶融しているのである。一歩の線はあちらとこちらとを分画した瞬間に、あちらでもあればこちらでもあることによって、自らを失う。

 それは<永遠の今>にあって凝固しているようにみえるが、この不動性はみせかけにすぎない。線は<生ける現在>によって支えられ、自ら延長し、線となる。ここから予測しがたい線の散策がはじまる。

 かぎりなく延長する線があり、足踏みする線がある。炸裂し、溶融する線、そして旋回する線がある。線に内在するこの運動によって、線の決定論はその一義性を失う。<生ける現在>は休みなく自らを更新し、あるときは季節の移りのように緩慢に、あるときは日の変わりのように、またあるときは火箭のようにすみやかに、すべての線を活性化する。

 こうして上昇する線と下降する線、現れる線と消えゆく線、直行する線と彎曲する線の対位法が生ずる。もっとも単純な一本の線のうちにも、追いつ追われつするフーガのように、線化のヒステレンス=履歴現象ともいうべき内面的構造がひそんでいる。

 すでに引かれた線は、線化の進行に応じて再編されつつ、遅れた効力を発生し、線化の先端へと飛躍する無数の力線を生み出す。一歩の線は変容をかさねながら、終りのない運動をもつ魔術的な幻惑をくりひろげ、世界の生成を通じて世界の<彼方>へと、時のきらめきを通じて<永遠>へとわれわれをいざなうのである。

 キャンヴァスにだまされてはならない。キャンヴァス上の収斂する線は、その不動のみせかけによってわれわれをキャンヴァスの上にとどめるが、それはキャンヴァスの手前へと、あるいはキャンヴァスの彼方へと空間をくりひろげるためにほかならない。われわれはキャンヴァスのこちら側に居合わせると同時に、キャンヴァスの彼方に立ち合っているのである。これは<眼だまし>であるが、絵画は<眼だまし>であることによって、われわれをめざめさせ、われわれに<見ること>の本質を開示する。

 線はこうして出現するやいなや、自らを超越する。たとえ<眼だまし>であろうと、一本の線は絶対的なはじまりである。それは自己を確定することによって、もろもろの可能な線を浮かび上らせ、再び自らを仮設的な存在へと、一つの出来事へと送りかえす。

 ここにわれわれの世界の創造の秘密、その両義性、絶対の弁証法ともいうべき転換が存在する。一本の線の出現は<サンス=意味>の誕生である。しかしそのサンス=意味は、空白の<ノン・サンス=無意味>の海のなかでしか<サンス=意味>でないことを認めなければならない。<サンス=意味>としての一本の線の出現は、ただちに空白を<サンス=意味>としての空間にかえる。一本の線は新たな<サンス=意味>を誕生させる<シニフィカシオン=意味作用>となるのである。そしてこの新たなサンス=意味の誕生は、引かれた線がみずから<ノン・サンス=無意味>へと後退することによってあがなわれなければならない。

 存在は<サンス=意味>と<ノン・サンス=無意味>とのたえまない転換のうちにある。われわれは、両者が交錯するこのような存在に名づけるべき適切な言葉をもたない。ただそれを現示し、その客観的相関物を創造することができるだけである。


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