夕暮はいかなる色の‥‥

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Information<四方館Dance Cafe>

−今日の独言−

 懐かしい記憶、幼い子どもの頃の、あるいは少年期、思春期の頃の。
その懐かしい記憶を、想い起こす時、人は、いつも、
あの時へ、あの情景のなかへ、その時の、そのままの、自分の姿へ、
戻ってみたい、と望んでいるものだ。
懐かしい記憶の、そこにはかならず、懐かしい人があり、懐かしい出来事がある。
生き生きと、あざやかに、その振る舞う姿が、まざまざと、脳裡によみがえる。


 今日の未明、というよりは、深夜というべきか、
懐かしい記憶のなかの、懐かしい人が、ひとり、
すでに五年前に、鬼籍の人となっていたことを知った。
たとえ、40年、50年という長い歳月を、それぞれ別世界に生きてきたとしても、
いつか、時機を得て、ふたたびまみえること、そんなはからいというものもあろうかと、
その記憶に触れるたび、思ってきたのだったが‥‥


 人は、未来に向かって生きるというが、はたしてほんとうだろうか。
私には、過去に向かってこそ、生きるということが、いかにも相応しいものに思える。
もう、ずっと、20年以上も昔から、私は、過去に向かって生きている、という気がする。
だって、そうではないか、人間、未来に向かって、いったい、どれほど、問えるというのか。
過去にならば、いくらでも、問える、汲めども尽せず、問える。
過去へと遡ることは、有限だが、問えることにおいては、無尽蔵だ。
未来へ志向することは、無限にみえるが、問えることにおいては、きわめて限られている。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋−30>

 夕暮はいかなる色の変ればかむなしき空に秋の見ゆらむ  藤原教家

古今集、秋、題知らず。鎌倉前期、藤原良経の二男、書を能くし、「平治物語絵巻」に名を残す。
邦雄曰く、虚空に「秋」が見えるという、類のない発想である。「色」はこの場合、趣き・様子・佇まい、黄昏の夕空に、なにか魔法にでもかかったように、「秋」そのものが立ち顕れてくる、その不可思議を、作者は何気なく透視、把握したのか。

 

 うなゐ児が野飼(のがい)の牛に吹く笛のこころすごきは夕暮の空  西園寺実兼

実兼公集、笛。鎌倉後期、太政大臣を経て後に出家、西園寺入道相国となる。永福門院の父。
西行の「うなゐ児がすさみに鳴らす麦笛の声におどろく夏の昼臥(ひるぶし)」を本歌取りしたものとされる。邦雄曰く、昼寝の夢を覚ます素朴な光景ではなく、野趣溢れる一幅の風景画に仕立てた。「すごき」は淋しさの強調だが、墨色に遠ざかっていく後姿が浮かぶ、と。


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