一葉だにいまは残らぬ木枯しの‥‥

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−今日の独言− タイム・スリップ

 先週の金曜日(2日)、高校時代の同窓会幹事連中の忘年会に出かけた。充分間に合うように家を出たのだが、地下鉄を降りて久し振りに歩く都心の夜の町並みに感を狂わせたのか、どうやらあらぬ方向にどんどん歩いてしまっていたらしく、地下鉄一駅分ほど行って気がつく始末。軌道修正して足を速めたものの目的の会場に着いたのは10分ほどの遅刻。総勢28名は男性17名に女性11名の内訳。そのなかにひとり、40年ぶりに会うKT君がいた。彼は高校時代の面影をそのままに残していた。同じ演劇部のロッカー部員のような存在で、三年間というものほぼ毎日顔を会わせていた相手だから、彼の容貌は鮮明に覚えている。その記憶の像そのままに、まったくといっていいほど老け込みもせずにいるKT君の姿形を、私は些か驚ろきつつ見入ってしまったものだ。宴のなかば私の隣に座り込んで長くはない時間だが話しこんだその会話も、声といい話しぶりといい、高校時代の彼そのままだった。おそらく私のほうも高校時代に戻った語り口になっていたろう。いま我々二人は40年余り昔の会話そのままに話し合っている。ちょっとしたタイム・スリップ、そんな感覚に襲われた些か不思議な時間だった。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<冬−4>
 一葉だにいまは残らぬ木枯しの枝にはげしき夕暮の声  飛鳥井雅親

亜槐集、冬。詞書に、寛正4年11月、内裏御続歌の中に、夕木枯。応永23年(1416)−延徳2年(1490)。新古今集撰者雅経を祖とする蹴鞠・和歌で名高い飛鳥井家の正統を雅世の長男として承継。
邦雄曰く、木枯しの声が夕暮につのり高まる意ではあるが、結句「夕暮の声」は、それ以上の効果を生む。平穏な上句に対して、下句のしたたかな技巧は陰鬱な迫力あり、冬の歌として、殊に15世紀後半には瞠目の価値があろう、と。


 一葉より誘ふ柳の影浅みさびしさなびく冬の河風  上冷泉為和

今川為和集、四。詞書に、享禄4年於駿州十月、冬植物。安土桃山期の人。藤原北家嫡流の系譜に連なる上冷泉為広の嫡子。
邦雄曰く、歌には珍しい、川端柳の蕭条たる冬景色、鞭の揺れるような枝垂れ柳の一葉も残さぬ姿。第四句「さびしさなびく」の、いささか捻った修辞も、頷かせるものがある。この人の家集には、柳の歌が頻々と現れ、この木へ寄せる愛着が窺われる、と。


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