泣きながす涙に堪へで絶えぬれば‥‥

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−今日の独言− エロスを求めて

 以下はP.ヴァレリーの文章からの引用、
出典は平凡社ライブラリーヴァレリー・セレクション 上」より。

 恋愛感情は所有すると弱まり、喪失したり剥奪されると発展する。
所有するとは、もうそのことは考えないこと。
反対に、喪失するとは、心のなかで無限に所有することである。

 他人をあるがままの姿で愛することのできる人はいない。
人は変わることを要求する、なぜなら人は幻影しか絶対に愛さないから。
現実にあるものを望むことはできない。それが現実のものだからだ。
おそらく相思相愛のきわみは、互いに変貌しあい互いに美化しあう熱狂のなかにあり、芸術家の創造行為にも較べるべき行為のなかに、
――ひとりひとりの無限の源泉を刺激するような行為のなかにある。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋−5>
 泣きながす涙に堪へで絶えぬれば縹(はなだ)の帯の心地こそすれ  和泉式部

拾遺集、恋。生没年不詳。10世紀後半の代表的女流歌人。越前守大江雅致の女。和泉守橘道貞と結婚し小式部を生んだ後、為尊親王敦道親王と恋愛、その後中宮彰子に仕えたが、晩年は丹後守藤原保昌に嫁したとされる。敦道親王との恋物語和泉式部日記として残す。
詞書に、男に忘れられて、装束など包みて送り侍りけるに、革の帯に結びつけ侍りける、と。縹(はなだ)−うすい藍色。
邦雄曰く、流す涙に帯も朽ちたと強調しつつ、催馬楽「石川」の、絶たれた縹の帯をもって、そのさだめの儚さを訴えている。作者の、情熱に調べを任せたかの趣きがここには見えず、心細げに吐息をつくように歌ひ終っているのも珍しい。詞書もあわれである、と。


 常よりも涙かきくらす折しもあれ草木を見るも雨の夕暮  永福門院

玉葉集、恋、寄雨恋を。かきくらす−掻き暗す、本来は、空模様などが暗くなることだが、転じて心情表現となり、悲しみにくれて惑乱している状態を表す。中世以降、「かきくらす涙」はよく用いられる秀句表現。
邦雄曰く、恋の趣きは歌の表に現れていない。ただ「涙」が忍ぶ恋を含むあらゆる悲恋を象徴する。草木を見ても、それもまた涙雨の種、さめざめと泣き濡れる。この雨は実景ではなく心象風景としてのそれであろう、と。


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