ただ頼めたとへば人のいつはりを‥‥

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Information−Aliti Buyoh Festival 2006−

−今日の独言− Buyo Fes の打合せのあとに‥‥

 昨日は、たった3分で事がすむような舞台打合せに、夕刻、京都は御所に隣接する府民ホール・アルティまで車を走らせた。おまけに渋滞を見越して余裕をもって出たら、約束の刻限に一時間ほど早めに着いてしまった。陽が落ちて冷え込むばかりの京都を散策するほどの意気地もないから、ホールロビーの喫煙コーナーに独り座して、読みかけの文庫本を開く。
 20分もしないうちに、舞台スタッフのほうで気を遣ってくれたのか、始めましょうと声がかかったので、舞台のほうへ移動。すでに下手にはグランドピアノが据えられ、ホリゾントには大黒幕が降りている。このあたりは事前の書面打合せどおり。さて舞踊空間をどうするかだが、此方は間口3間×奥行4間のフラットな空間さえあればよいという、いたって単純素朴な要請。このホールは舞台が迫り(昇降装置)を備えており、段差を利用したいくらかのヴァリエーションが可能なのだが、此方の望みどおりのスペースでは昇降不能。ならば全面フラットとせざるを得ないかと断。
「こうなったらアカリのエリアを絞り込んでもらうしかないねエ。」などと照明のF氏と二つ三つ会話を交わしたら本題たる打合せは完了。この間、3分もかかったろうか。予定時間をたっぷりと一時間余り取って、おまけに舞監、大道具、照明、音響とスタッフ4人揃っての打合せだというのに、こんなので好いのかしらんと、みなさん拍子抜けの態で、休憩時間の延長みたいなリラックスモード。残る時間をF氏といくらか四方山話に花を咲かせ、ほどよいところでご帰還と相成ったのだが、その話のなかで泉克芳氏の死を知らされ些か驚いた。年明けてすぐのことだったらしいとのこと。

 舞踊家泉克芳はまだ60代半ばではなかったか。日本のモダンダンスの草分け石井漠の系譜に連なる異才であった。80年代になって東京から関西へと活動の場を移してきたのだったか、同門の角正之が一時期師事した所為もあって、彼の舞台を二度ばかり拝見したことがある。彼がこの関西にどれほどの種を蒔きえたか、その実りのほどを見ぬままに逝かれたかと思えば、ただ行き行きてあるのみの、この道に賭す者の宿業めいたものを感じざるを得ない。惜しまれる死である。合掌。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋−14>
 恋ひ侘ぶる君にあふてふ言の葉はいつはりさへぞ嬉しかりける  中原章経

金葉集、恋。詞書に、いかでかと思ふ人の、さもあらぬ先に、さぞなど人の申しければ詠める。
生没年不詳。勅撰集にこの一首のみ。
邦雄曰く、恋に我を忘れた男の、一見愚かな、しかも嘘を交えぬ言葉が、第三者の胸をすら打つ一例であろうか。技巧縦横、千紫万紅の恋歌群のなかを掻き分けている時は、このような無味単純極まる歌も、一服の清涼剤となりうる、と。


 ただ頼めたとへば人のいつはりを重ねてこそはまたも恨みめ  慈円

新古今集、恋、摂政太政大臣家百首歌合に、契恋の心を。
久寿2年(1155)−嘉禄元年(1225)。関白忠通の子、関白兼実の弟。摂政良経の叔父。11歳にて叡山入り。後鳥羽院の信任厚く護持僧に、また建久3年(1192)権僧正天台座主、後に大僧正。吉水和尚とも呼ばれる。家集は拾玉集、愚管抄を著す。千載集以下に約270首。
邦雄曰く、たった一度の嘘を恨むものではない。もう一度犯した時に恨むことだ。それよりもひたすらに自分の男を信じ頼みにしていよと、教え諭すかの恋の口説。大僧正慈円だけあって、睦言も説教めいて、とぼけた味、と。


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