風のなか米もらひに行く

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 アルティ・ブヨウ・フェスティバルの公募公演シリーズの三日間が昨夜無事終了した。
前回2004年開催と同様に、全演目を客席から観るという苦行にも似た喜悦?を自分に課した。決して私だけではないと思うが、よほどのことがないかぎり他人の舞台には接しないものだ。
例年5日間30団体の公募選抜公演に比して、今回3日間17団体(内、韓国古典舞踊は結果的に参加できず16団体)に絞り込まれた分、全体にどうだったのかといえば、作品世界の多様性という意味では些か寂しかった感は否めないが、かといって低調に終始したわけでもない。
今回の私の寸評はやや抽象的になってしまったきらいがあるので、直接作品に接しなかった人々にとっては、なにを意味しているのか解りにくい面があるだろうが、お許し願いたい。


ALTI BUYOH FESTIVAL 2006 in Kyoto <辛口評−1>

−第1夜− 2/10 Fri 

◇二つの岸辺〜カルテット・ヴァージョン〜
                    −セレノグラフィカ−京都
 構成・演出・振付:隅地茉歩 衣裳:高橋あきこ
 出演:阿比留修一 指村崇 二軒谷宏美 隅地茉歩
Message
 没頭できる話題の後は、しばらく黙ることもある。
 あいづちを打ちつつ、すき間を探す。
 誰かこの次、口火を切るか。

<寸評>
 作者はコンテンポラリーであれなんであれ既視感に満ちた表象世界からいかに遠ざかりうるかを試みたいらしい。いわばコンテンポラリーの破壊、ダンスの解体作業を行なっているかのごとき世界なのだが、破壊即ち創造とはいかない。破壊は創造への必要条件ではあろうが且つ十分条件ではないことを瞑すべしか。
作者言うところの、ダンスとは無縁な日常の「動作」というフィルターをかけたところから探し出され、紡がれる「身体操作」なるものは、そのフィルターゆえに日常性のなかにあふれるノイズをそのままにそこ−表象−に持ち込むことになる。ノイズを持ち込むなというのではない、ノイズに満ちた身体操作−動き−がありうるとすれば、それをしも日常的私語レベルから非日常的私語へと宙吊りにしなければなるまい。そのように止揚しうる仕掛けは構成や演出にあるのではない。動き−身体表象−そのものに仕掛けられなければならないのだ、と私は断定しておく。


◇Cnntacts 〜ひととひととの間で起こること〜
                    −MOVE ON−大阪
  構成・演出・振付:竹林典子
  出演:竹林典子 小平奈美子 大野由喜 竹中智子 池田愛 北野万里子 湊智恵美
Message
 Ⅰ.あふれる涙 Ⅱ.楽しいことも悲しいこともあるけれど‥やっぱり
 Ⅲ.you+one  Ⅳ.VOICE&VOICE
 Contacts 誰かに何かを伝え自らの生を実感する。
 ひととひととの間の空間で互いに感じあい存在していることを表現する。
 一人、二人、三人、複数の場合、どのように感じ、生を実感するであろうか。

<寸評>
 バレエテクニックを基礎においてよく訓練されているらしい個々の身体技法は、伸び伸びと素直で快いものであった。構成・演出も女性らしい発想のもとでよく整理されている。自転車とハシゴを使ったSCENE(Ⅱ)も、ステンレスコップとスプーンで音をかき鳴らしたSCENE(Ⅳ)も破綻なく巧みに処理されていた。
いわゆるソフィスティケートされたコンテンポラリー・ダンスとはいえようが、裏返せばお行儀のよい毒にも薬にもならない表現世界ということだ。これはもう作者自身の問題意識、人生観の深まり以外になす術はない。


◇蜜 −Bouche de miel, coeur de fiel−
                    −ビィ・ボディ・モダン−北海道
  構成・演出:坂見和子 振付:宮沢菜々子 伊勢谷朋子
  出演:宮沢菜々子 伊勢谷朋子
Message
 宮沢:どこが変なのかわからないと言われつつ、変な人だと言われつつ、変な人なんだと悩みつつ、どこが変なのか探しつつ、変な人を楽しみつつ、変な人が幻像するサプリメント
 伊勢谷:短大卒業後ジャズダンスと出会い、バレエ・HIP HOP・コンテンポラリー等、様々 なジャンルのダンスを学ぶ。踊ることに魅せられ続けて18年。現在、五感を駆使し身体表現する自己の可能性を模索中。

<寸評>
 副題の仏語の意味するところは「外面菩薩、内面夜叉」ほどのことらしいが、それを聞けばなおさらにこの作品の欠陥は構成・演出の責めに帰するところ大である。
象徴的な小道具として用いられた赤いトゥシューズへのA・B二人の拘りや争い、そして各々の自身内部の相克などが展開されるが、彼女らの身体表象にはバレエ・テクニックが微塵も見受けられず、モダンそのもの、それも心理的表象を前面に出した身体表現だから、小道具の象徴性には異和がつきまとい、ただの観念的裏付けに堕してしまうのだ。
甚だ辛辣ながら、幼児がごっこ遊びのなかでシンボリックなものの存在を無意識に了解していく過程があるが、その象徴遊びを大人がなぞったようなもので、それがなぞりであるだけに救いがたいというものだ。


道成寺〜桜の中の清姫
                    −古澤侑峯−神奈川
  構成・演出・振付:古澤侑峯 美術:小松沙鬼 演奏:福本卓道 ヤススキー
  出演:古澤侑峯
Message
 「花の他には松ばかり 暮れそめて 鐘や響くらん」
見目良き僧を恋したうら若い清姫は、逃げてゆく僧を必死に追いかけました。行く手を阻む日高川を蛇体になって泳ぎきり、ついに道成寺の鐘を見つけ、蛇体を鐘に巻きつけて、中に隠れる僧もろとも炎を吐いて焼き尽くしてしまいました。やがて清姫は血に涙を流して去ってゆきました。後には桜が舞い散っておりました。幻想的な昔物語を、地唄舞と尺八に、アフリカンハープ、ギター、カリンバという取り合せで表現していきます。

<寸評>
 舞い手は地唄舞の人だという。構成を二部に分けた。前ジテと後ジテよろしく、前段は春や春幼な恋、恋する乙女清姫の心象風景、後段は衣裳も代えて、蛇身となって恋する男を追いかけ追いつめ、鐘巻き焼き尽くす。
尺八の演奏はなかなかのものと見えた。民俗楽器の奏者は中央奥と上下前の三台のSPで音場を動かしてゆくのだが、この工夫が煩く過剰。和洋の音のセッションとしてはかなり面白く聞けるが、此方を面白がっていると舞のほうが沈み込んでしまって際立つことがない。日舞特有の残心の技も重ねれど、音場に吸収されていくから、印象形成がない。展開する時間のなかで形成力がもがれるということはただひたすら間延びする羽目に陥ることだ。
形成力を削いだもう一つの原因は、舞い手が与えられた広い舞台空間をその広いままに埋めようとしたことだ。和洋に限らずsoloの舞踊たるもの、与えられた空間が広ければ広いほど、求心力を強め、上下方向の超越性へと向かわざるをえないのだが、その視点を欠いていたのではないか。


◇春の詩
              −Lee Jung-Ⅱ Ballet Company−韓国
  構成・演出・振付:Lee Jung-Ⅱ(啓明大学教授)
  出演:Lee Tae〜Hyun 他9名
Message
 春の風は愛を運ぶ、心地よい風に包まれて愛の花が咲く
 春の風は愛を運ぶ、私の心も鮮やかな花の色に染めてゆく
 暖かい春の色に染めてゆく

<寸評>
 大邱の啓明大学で舞踊を学んだOBたちで構成されたカンパニーと聞く。作者はオーストラリアでバレエを学んだと。
4つの場面構成、音楽にJazz曲を使用していたのがシーンによって功罪半ばした。前半の1、2曲目ではプラス効果だが、後半の3、4曲目は曲調がハードで重く、振付と違和が大きく残りマイナス効果夥しい。振付はいかにも定番というしかないバレエである。音楽を目新しいものにしたからといって、振付に相応の工夫がなければ装いが新たになる道理もない。プリマドンナはじめ身体技術は一応の水準と見えるが、振付や技法は国際的レベルから遠く古色蒼然といったところか。


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