御飯のうまさほろほろこぼれ

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ALTI BUYOH FESTIVAL 2006 in Kyoto <辛口評−2>

−第2夜− 2/11 Sat 
◇片むすび−幽色の気配−      −23分
                     Idumi Dance Company−大阪
   作・構成・振付:山田いづみ 演出:西村文晴 音楽:梅木陽子
   出演:山田いづみ 梅木陽子
Message
片むすびはグッバイの結びです。片方の紐を引くだけですぐ解ける。人の縁の結びも片方だけでおさらば出来れば、この世の中の半分の悩みは消えて無くなる。片むすびは小気味いい結びです。
幽は心の底に誰しもが持っている気配の事です。人の心の絡み合いで疲れ果てた人の心に、ふと湧き上がる気配です。色という字は男と女の絡み合う姿を象形化した文字らしく、艶っぽいものです。−以下略−

<寸評>
この舞い手と演奏者のコンビによるセッションはもう幾たび為されてきたのだろう。お互いに刺戟しあえる良い関係が続いてきたであろうことを窺がわせる舞台であったことは善しとしたい。
屏風を9張使って舞台に配置、空間を限定した。無論、舞台機構を利用した段差の変化もあるが、それらによって動きはほとんど平行移動することとなった。
冒頭、下手寄りに配した演奏者の背後から、ゆっくり身を起こして現れる趣向は、演出として成功したが、見るべきはその前後4、5分のあたりまで、演奏者をもう一人の演者の位置にまで高めてしまった演出は、そのこと自体否定されるものではないが、男声と女声を畳みかけるように使い分けた、なかなか見事なVoice-Controlの表現力に、舞い手としての演者は脇方へと化してしまった。
今日のこの演出を経て、舞い手・山田いづみは、自らをあらためてシテ方へと返り咲かせるべき方途を探り出さなければならない。


◇タバコ−TOBACCO     −25分
              Lee Hwa-Seok DANCE PROJECT−韓国
   構成・振付:Lee Hwa-Seok (大邱芸術大学教授) 
   演出:Mun Chi-Bin
   出演:Seo Seung-Hyo 他13名
Message
振付中心のダンスだけではなく、Balletを基本としてJazz、演劇的で、マイム的な要素も盛り込みながら21世紀に先立つDANCE COMPANYを目指す。今回の作品は現代に生きる人々の葛藤、そして現代社会の不条理を「Tobacco Story」に通して表現し、観客と共に考えたい。

<寸評>
大きいソファを使って群像を配する演出は80年代のダンスシーンでよく用いられた。Tobacco−喫煙行為−を象徴化し、現代文明の頽廃や病巣を浮かび上がらせようという演出の狙いは一応成功しているだろう。赤いヒールはブランドや高級品志向に走らされる大衆の、憧れのモノそのものの象徴だ。
客席の反応は総じて良く成功した舞台といえるが、私などにはいずれの演出にも既視感がつきまとう。寺山修辞的世界の断片を垣間見るような場面もあったし、やはり80年代ダンスシーンのコラージュ的作品という印象から抜け切れない。


◇見えないつながり        −17分
                    木方今日子ダンスアート空間−岐阜
   構成・演出・振付:木方今日子
   出演:福田晴美 岩田純子 近藤千鶴 横山小百里 木方要
Message 希薄になってしまった人の心
      いつの間にか誰もいなくなってしまった

<寸評>
一言でいえば、かなり未成熟なダンス・コンポジションといった作品。
舞台にはトラック競技のように白線が平行に何本か走っている。格差社会化が進む日本、その競争レースを勝ち抜こうと、挫折しかかったりなどギクシャクしながらも懸命に走りぬく、悲惨ともいうべき群像を描こうという狙いか。終幕、コース分けされた白線は、演者たちが白のガムテープで走るように床に貼り付けて、倍加される。いくら懸命に走っても、彼らの努力や精進には関係なく、さらに競争は激化したという訳だ。
女子5名による構成だが、その動きは総じて音との相性もよくない。先述のような設定だから、動きはどこまでも、上手から下手への平行移動が主体となる。一度はそれを崩して波乱を招くような演出が必要だろうがそれもない。
みんな共通に、衣裳の背中に貼り付けられた大きな×印は、お前たちは落ちこぼれだと社会から断を下されたサインらしいが、この演出もまったくいただけない。


◇砂時計                 −18分
                             うまさきせつこ−兵庫
   構成・演出・振付:うまさきせつこ 映像制作:界外純一
   出演:安藤あい 木村佳江 うまさきせつこ
Message
砂のように時は流れ、風のように過ぎ去ってゆく。人の魂は時の集合体である。
流れ過ぎ行く時にまつわる様々な想いを吸収し、魂は肉体を変えて生き続け膨らんでゆく。
私は一粒の砂に過ぎず、時の流れに溶け込んで行くが、与ええ合い、影響しあう魂として小さな時をつくる。

<寸評>
プロローグは舞台天井から糸のように果てしなく落下する砂が一条の光に照らし出されて幻想的な効果。砂時計に託された「時間の呪縛のうちにしか生きえぬ人としての存在」を表象する。
後半の中ほど、起承転結の転とみられる場面は映像を駆使。まず実際の砂時計が映し出され、ボール遊びをするまだ幼い女の子の黒いシルエットと重なり、やがては踊り手本人の現在の踊る姿へと変わり、映像のなかの動きと、同じ動きが踊り手によってなされ同時進行する。これもまた印象度は強く、作者の狙い通りの意味形成を為している。
指摘しておかなければならない課題は、演出的に成功したプロローグから転の場面に至るまでの、ダンスシーンの形成力がまだかなり弱いという点だ。ダンスとは異なる表象でプロローグや転に値する場面づくりが印象度を強まれば強まるほど、それに拮抗しうるダンスシーンをもって対抗できなければならない、それがダンスを表現主体とすることを選び取った者の本来果たすべき仕事だと覚悟するべきだ。
本来あるべき研鑽を期待したい。


Ruby 〜Memorial       −21分
                  舞うDance〜Heidi S.Durning−京都
   構成・演出・振付:Heidi S.Durning
   音楽作曲:Jean-Francois Laporte
   出演:Heidi S.Durning
Message 大地と母への思い
      自然と命へささげる舞

<寸評>
スイス人の父と日本人の母の間に生まれたという彼女は日本で育ったらしく、藤間流日舞の名取でもあり、現在京都精華大の教員を務める国際的に活躍するダンサーでもあるようだ。
作品は阪神大震災の犠牲者たちに捧げられたのレクイエム、それは母への祈りでもあるという。
白い打掛を羽織りその下には赤い襦袢が覗く。動きはどこまでも静、それとコントラストをなすように機械音と旋律がミキシングされた音世界は重く激しい。それは自然を破壊してやまない傲慢なまでの現代文明を表象してでもいるかのようだ。その音の支配下のなかで、舞い手はひたすら祈りを捧げているかのごとくどこまでも静かに動く。何かが起こるわけでもない、祈りの儀式にも似た世界。
ひとつ大きな異和を感じぜざるを得なかったのは、冒頭近く、羽織っていた打掛を静かに床にひろげ、佇立しつつそれをしばし見つめたあと、あくまでそっとだがその打掛のうえに足を運び、両足で立ったことだ。それからは静かに安らぐかのように仰向けに寝たのだが、この打掛に足を乗せて立つという行為は、祈りの舞であればこそ、いくら虚構の表象世界としても許される所作ではないだろう。もし許容できうるとすれば、唯一、舞い手自身が神の御手に委ね捧げられた生贄としての身体、即ち生の否定としてある場合のみではないか。その視点からこの舞を観るとき、舞い手のありようはどこかギリシア的女神にも似ておおらかに過ぎ、神と人との境界を曖昧なままに揺れ動いているように見えるのだ。


◇Sou-Mon <相聞-Ⅲ>        −23分
                        四方館 Shihohkan−大阪
   構成:林田鉄 演奏:杉谷昌彦 衣裳:法月紀江
   出演:小嶺由貴 末永純子
Message
われわれにとっての主題とは、身体的表象が<舞踊>へと転移しうる
その発生の根拠をひたすら尋ねゆく螺旋様の道行きにすぎない。
−定家恋歌三首−
   散らば散れ露分けゆかむ萩原や濡れてののちの花の形見に
   かきやりしその黒髪のすぢごとにうちふす程はおも影ぞ立つ
   年も経ぬいのるちぎりははつせ山尾上のかねのよその夕ぐれ

<後口上>
自分たちが出品した作品を自ら評する訳にもいかないから、前口上ならぬ後口上として若干記しておくことにする。
After-Talkでも触れたが、私は20年この方、Improvisation−即興−をもって作品として提出するを旨としてきた。その拠って立つ作業仮設は、一言でいえば、蕉風俳諧の「連句的手法」にある。私はこのことを安東次男氏の著書「芭蕉七部集」で学んだ。といっても私は詩人でもなく句作人でもない。ただ一介の動きでものを考える者にすぎないから、連歌連句にあるように、座における蓮衆が丁々発止と即吟し一巻を成すありようを、身体の表象をもって為す表現世界へと換骨奪胎したいだけだ。
私の師・神澤和夫は、邦正美に啓示を受け、M.ヴィグマン、L.ラバンへと深く回帰し、余人を許さぬ舞踊の世界を現出せしめた。少なくとも私はそう確信している。いわば私にとって神澤和夫が示しえた世界は「正風」なのである。その正風世界を私なりに継承したいと考えたとき、どんなに遠かろうと彼の採った方法論を内懐から反芻していくのが弟子たる者の王道であろうが、彼と私は師弟でありつつも同時代を呼吸する者として、現実にはよくあることだが、哀しいかな反撥しあう力学も強く働いてきたのも事実である。私は、彼の正風を真に継承するには、むしろ独自の対抗手段をもって為すべしと思い至ったところから、この作業仮設に邁進するしかない長い旅路へと歩みはじめたのだった。
いま、この時点で、ささやかなりとも幾許かの確信をもって、この宣を記すことのできる僥倖を、多としたいと思う。


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