谷に残るこぞの雪げの‥‥

051023-002-1

Information<2006 市岡高校OB美術展>
2/19 Sun〜2/25 Sat 於/現代画廊・現代クラフトギャラリー


−今日の独言− H.ホルン振付「ラーケンハル」を観て

ドイツ・ダンスの新しい世代という触れ込みで、アルティ・ブヨウ・フェスの特別公演があった。ご招待いただけるというので折角の機会と観に出かけた。出演のフォルクヴァンク・ダンススタジオというカンパニーは何度も来日しているあのビナ・バウシェも’99年から芸術監督を務めるというチーム。
作品「ラーケンハル」とは織物倉庫の意味だそうな。ベルギーのフランドル地方といえば、ネロとパトラッシュの物語でお馴染みのフランダースの犬の舞台となったところだが、中世ヨーロッパでは織物業を中心に栄えた商業的先進地域であった。フランドル楽派と呼ばれるルネッサンス音楽を輩出するという時代を劃した伝統ある文化圏でもあったが、17世紀以降、近代国家化していく時代の波に翻弄され、ヨーロッパ各国の紛争のなかで支配と弾圧の蹂躙を受けつづけてきた。作品の主題とするところは、いわばフランドル地方のこういった歴史であり、この地域に生きつづけてきた人々のアイデンティティというべきか。

上演時間は60分余り、巧みな構成は長過ぎるとも重過ぎるとも感じさせはしなかった。印象を一言でいえば、1920年代、30年代のドイツ表現主義、その良質な世界を鑑賞したという感覚。もちろんダンス・テクニックは現代の先端的な意匠が随処に散りばめられているのだが、シーンの割付や展開とその演出意図、その構成主義的ありようは、L.ラバンやM.ヴィグマンを輩出したドイツ表現主義とよく響きあっているのではないかと思われるのだ。私がダンスシーンに要請したい、各場面のなかで動きそのものの造形力がどんどん増幅し膨張していくという、そんな表現世界の創出には遠かったとしかいえない。私の勝手な造語で恐縮だが「レーゼドラマ・スケッチ」としての各場面がA.B.Cと連ねられていくだけだ。むろんそこにはドラマトゥルギィはあるのだが、劇的世界は舞踊の論理とはまた別次のことであり、その観点からの評価は舞踊の批評として対象の埒外にあるべき、というのが私のスタンスだ。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春−12>
 谷に残る去年(こぞ)の雪げの古巣出て声よりかすむ春のうぐいす
                                    後鳥羽院

後鳥羽院御集、正治二年第二度御百首、鶯。
邦雄曰く、百首ことごとく青春二十歳の華。第四句「声よりかすむ」の水際立った秀句表現にも、怖いものなしの気負いが窺える。「梅が枝の梢をこむる霞よりこぼれて匂ふ鶯のこゑ」がこの歌に続き、同じく第四句が見せ所だ。言葉の華咲き競う13世紀劈頭の、爛漫の春を予告する帝王の、爽やかな歌、と。


 雪の上に照れる月夜に梅の花折りて贈らむ愛(ほ)しき児もがも
                                    大伴家持

万葉集、巻十八、宴席に雪月梅花を詠む歌一首。
邦雄曰く、酒席の趣向に即して創り上げた歌だから、雪月花に愛しい子まで添え、至れり尽くせりの結構づくめだ。祝儀を含めた挨拶の歌としてはまことにめでたい。花が梅ゆえに三者純白で統一され、さらに清麗な眺めとなった。古今集の物名歌と共通する一種の言語遊戯ながら、作者の詩魂を反映して格調は高い、と。


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