梅の花あかぬ色香もむかしにて‥‥

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−今日の独言− ギリヤーク尼ヶ崎と‥‥

大道芸人として日本国内だけでなく世界各国も遍歴した孤高の舞踊家ギリヤーク尼ヶ崎が、その若かりし頃、邦正美に舞踊を学んだという事実は意外性に富んでいてまことに興味深いものがある。
邦正美とはわが師・神澤和夫の先師であり、戦前にドイツへ留学、M.ヴィグマンに師事し、L.ラバンの舞踊芸術論や方法論を「創作舞踊」として戦後の日本に定着せしめた人であり、また「教育舞踊」として学校ダンス教育の方法論化をはかり、多くの教育課程の学生や現職体育教員に普及させた人である。

ギリヤークの略歴をインタビュー記事などから要約すると、
1930年、北海道函館の和洋菓子屋の次男として生まれ、子どもの頃から器械体操が得意な少年として育ち、戦後初の国体では旧制中学4年の北海道の代表選手に選ばれたほどだという。映画俳優になりたくて51年に上京したが、強いお国訛りがことごとく映画会社のオーディションをパスさせなかったらしい。
その後、邦正美舞踊研究所で舞踊を学び、俳優の道をあきらめ、57年に創作舞踊家としてデビューしているが、折悪しくその頃、実家の菓子屋が倒産、東京生活を断念して帰郷する。3年ほど青森の大館で家の手伝いをしながら、大館神明社で創作舞踊を考案しながら過した、という。
ギリヤークの踊りに影響を与えたのは禅思想だ。「一瞬一瞬を生きていく」という鈴木大拙の思想を形にしたいと考え、踊りで表現したいと思った、と言っている。
大道芸人として路上パフォーマンスを誕生させた契機は、知遇を得た故宮本三郎画伯から「青空の下で踊ってみては」と言われたことに発する。踊りに専念しその道で喰うこと、それには細い一筋の道しかなかったのだろう。すでに38歳、人生の一大転換は68年のことだった。

ところで、神澤和夫は1929年生れで、ギリヤークとは1歳しか違わず、まったく同時代人といっていいが、この二人が相前後して邦正美に師事しながら、その後それぞれに開いて見せた世界は反対の極に位置するほど対照的であり遠いところにあるかに見える。
神澤は先達の邦正美を通して、M.ヴィグマン、L.ラバンへと参入していき、自身をその系譜の正嫡たらしめんと厳密なまでに自己規定し、自らの表現世界を創出してきた。他方、ギリヤークにはかような自己規定も問題意識も皆無というほどに見あたらない。彼の自己規定は、その生涯をひたすら踊る人としてあること、彼の関心はこの一大事に尽きるように思われる。正統も異端もない、一所不在、漂白の芸能民としておのが舞踊を実存せしめた。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春−18>
 山城の淀の若薦かりにだに来ぬ人たのむわれぞはかなき  詠み人知らず

古今集、恋五、題知らず。
若薦(わかごも)−若くしなやかなコモ。かりに−「刈りに」と「仮に」を懸けている。
邦雄曰く、眼を閉じれ
ば、掛詞の淀の若薦の淡緑の葉が鮮やかに靡く、薦若ければ刈らず、故に仮初めにも訪れぬ恋人をあてにする儚さを歌う素材ながら、その彼方にまた、利鎌(とかま)を引っ提げて近づく初夏の若者の姿さへ彷彿とするところ、古今集の「詠み人知らず」恋歌のゆかしさであろう、と。


 梅の花あかぬ色香もむかしにておなじ形見の春の夜の月  俊成女

新古今集。春上、千五百番歌合に。
邦雄曰く、新古今集の梅花詠16首中、艶麗な彼女の歌は、皮肉にも嘗ての夫、源通具の「梅の花誰が袖ふれし匂ひぞと春や昔の月に問はばや」と並んでいる。人は変わったが梅も月も昔のままと懐かしむ趣き、言葉を尽くしてなほ余情を湛える。藤原俊成は孫娘の稀なる天分を愛でて養女とし、俊成女を名のらせた。後鳥羽院がもっとも目をかけた当代女流の一人であった、と。


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