袖ふれば色までうつれ‥‥

060303-1-1

−今日の独言− 桃の節句のヒナ

3月3日、桃の節句だというのにまたしても厳しい寒波にうち震えているが、それでも桜の開花予想は例年より各地とも一週間余り早いという、よくわからない気象異変。
中国の古い風俗に、3月上巳の日に、水辺に出て災厄を払う行事があり、これが曲水の宴となって、桃の酒を飲む風習を生んだ、という。
日本でもこの風習は早くから伝わったようで、天平勝宝2年(759)のこの日、大伴家持越中の館で宴を開いて
  からびとも舟を浮かべて遊ぶとふ今日ぞわが背子花かづらせよ  −万葉集、巻十九
と歌っている。
また、日本固有の行事としては、巳の日の祓いと言って、人形−ヒトガタ(形代とも撫で物ともいわれる)−で身体を撫で、穢れを移して、川や海に流すという風習があったそうな。
源氏物語」の「須磨」の巻には、光源氏が巳の日に人形を舟に乗せて流す場面が描かれている。
この祓いの道具である人形から転じて、宮廷貴族の雛遊びとしての美しく着飾った雛人形が登場してきたのだろうとされている。
このあたりの事情から想像を逞しくすれば、和語としての「ヒナ」は「雛」でもあり「鄙」でもあったのではないか、同じ根っこではなかったか、などと思えてくるのだが、真偽のほどは判らない。
現在に至る華麗豪華な内裏雛のように坐り雛になったのは室町の時代からとか。やはりこれも中国から胡粉を塗って作る人形技術が伝わった所為だそうで、桃の節句の雛祭りは、端午の節句とともにだんだん盛大なものに形を変えて、今日まで受け継がれてきた。


  草の戸も住替る代ぞ雛の家   芭蕉
  とぼし灯の用意や雛の台所   千代女
  雛の影桃の影壁に重なりぬ   子規
  古雛を今めかしくぞ飾りける   虚子


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春−21>
 袖ふれば色までうつれ紅の初花染にさける梅が枝  後嵯峨院

拾遺集、春上、建長六年、三首の歌合に、梅。
歌意は、袖が触れれば、匂いばかりか色までも移し染めてくれ、紅の初花染めのごとく色鮮やかに咲いた梅よ。
邦雄曰く、珍しい紅梅詠。初花染めはその年の紅花の初花を用いた紅。重ね色目にも紅梅は古代から殊に好まれた。この歌、律動感に溢れ、袖振る人の面影まで顕つ。人か花、花か人、鮮麗の極を見せ、歴代の御製中でも秀歌の聞こえ高い一首、と。


 梅の花咲きおくれたる枝見ればわが身のみやは春によそなる  守覚法親王

北院御室御集、春。
邦雄曰く、「なにとなく世の中すさま゛じくおぼゆるところ」云々の詞書あり、季節に後れたる梅、世にとりのこされる自らを侘びしむ歌であろうか。後白河院第二皇子、式子内親王には兄、後鳥羽院には叔父。仁和寺六世の法灯を継ぎ、新古今時代の有力な後援者であった、と。



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