きぬぎぬの袖のにほひや残るらむ‥‥

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−今日の独言− ガンさんこと岩田直二

ガンさんこと岩田直二氏の晩年は、一見するところいかにも飄々とした好々爺で、親しみやすい面貌であったが、内面夜叉ともいうべき筋金入りの演劇人であり、戦前・戦後の関西新劇界を牽引してきた人である。
彼自身が回想するところによると、芝居を専門的にはじめたのは昭和8年(1933)頃だという。おそらく旧制中学を出てまもない頃のことだろう。その後、昭和10年(1935)にはいくつかの劇団が合同して大阪協同劇団が生まれるが、彼もこれに参加している。
日本の新劇運動の幕開けともいうべき画期は築地小劇場の誕生に擬せられるが、この成立には大正12年(1923)の関東大震災が深く関わっている。当時、ドイツ留学中の土方与志は震災の報を聞き急遽帰国、震災復興のため建築規制が緩められたことから、小山内薫とともに仮設の劇場建設を構想、劇場建設と劇団育成の二軸を立て、半年ほどで築地小劇場の開場までこぎつけた。大正13年(1924)6月のことである。千田是也滝沢修をはじめ日本の新劇の水脈はほぼ築地小劇場より発するといっても過言ではない。
昭和3年(1928)12月に小山内薫が急逝、翌年には土方与志丸山定夫久保栄山本安英・薄田研二らが新築地劇団を結成、残留組の築地小劇場とに分裂した。
岩田直二は、’30年代後半の一時期上京し、新築地劇団の薄田研二宅に居候し、この劇団の芝居に出演もしているという。やがて戦時下体制のもとで、リアリズム演劇を標榜していた新協劇団や新築地劇団は強制解散され、大政翼賛会支配下の移動演劇隊活動となっていく。太平洋戦争も敗色濃厚となった昭和19年(1944)11月には、徴兵検査の丙種合格であった岩田直二までが召集され、ソ連軍に対面する東満州に服役している。
終戦の昭和20年(1945)12月、東京では新劇合同公演として「桜の園」が上演されているが、関西や他地域では復興の足取りは重い。昭和22年(1947)、岩田直二演出でドフトエフスキーの「罪と罰」上演あたりが復興の狼煙か。翌23年(1948)には、土方与志を演出に招いて、合同公演「ロミオとジュリエット」を上演したのが復興期のメルクマールともいうべきものだつたろう。この時、岩田直二はロミオを演じ、ジュリエットには当時民芸の轟夕起子が客演した。
昭和24年(1949)に発足した大阪労演は’50年代にその会員を着実に拡大していった。この観客組織の成長が専門劇団としての「関西芸術座」の誕生を促進する一助となったのは間違いあるまい。昭和32年(1957)、五月座・制作座・民衆劇場の三劇団が合同して関西芸術座が創立され、岩田直二は劇団の中軸として長年のあいだ演出を担当。晩年になって退団して後も、いろいろな劇団で演出や指導を行なってきた。
岩田直二はその生涯にわたり関西新劇界のつねに中軸にあって牽引役を果たしてきた。その功を偲びつつ、ご冥福を祈りたい。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春−20>
 明けやすきなごりぞ惜しき春の夜の夢よりのちの梅のにほひは  亀山院

亀山院御集、詠百首和歌、暁梅。
邦雄曰く、春夜はたちまちに明方を迎え、見果てぬ夢はなお名残りを止める。夢の中に聞いた人の袖の香はうすれつつ、そのまま薄明の梅の花の匂いにつづく。夢とうつつのおぼろな境を、至妙な修辞で再現した秀作である。亀山院は後嵯峨院の第三皇子、続古今集以下に106首、御集には300首余伝わり、その堂々たる調べは13世紀末の歌群に聳え立つ、と。


 きぬぎぬの袖のにほひや残るらむ梅が香かすむ春のあけぼの  宗尊親王

柳葉和歌集、弘長二年十一月、百首歌、梅。
仁治3年(1242)−文永11年(1274)、後嵯峨天皇の皇子、母は平棟基の女棟子、亀山院の異母兄。建長4年(1252)、執権北条時頼に請われ鎌倉幕府第6代将軍として鎌倉に下る。文永3年(1266)、謀反の嫌疑をかけられ京都に送還される。続古今集初出、最多入集。以下勅撰集に百九十首。
邦雄曰く、ほのかな光の中に漂うゆかしい香気は梅の花、否、先刻飽かぬ別れをした愛する人の衣の薫香の残り香であろうか。後朝の心も空の陶酔を裏に秘めた、まことに官能的な梅花詠。宗尊親王は後嵯峨院の第一皇子、鎌倉に将軍として迎えられるも、24歳にて京へ逐われ憂愁の日々を送る。一代の秀歌、実朝の塁を摩す、と。


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