花の色も月の光りもおぼろにて‥‥

051129-041-1

−今日の独言− パースペクティヴⅡ<自己と二つの対他存在>

※以下は1月11日付<神とパースペクティヴと>と題して掲載した、市川浩著「現代芸術の地平」より抜粋引用した一文に続くものである。


私の知覚や行動は、つねにいま−ここにある原点としての私に中心化されている。すべての知覚、すべての行動は、いま−ここ−私から発し、(いま−ここ−私)に貼りついた癒着的パースペクティヴのもとにある。生体は、自己を中心にして価値づけられ、意味づけられた世界をもつ。
それは私の知覚・行動・思考に、私の知覚、私の行動、私の思考という意味と感覚をあたえる基盤ではあるが、さしあたって<私>はまだ未分化である。<いま−ここ−私>は未分化のまま生きられているにすぎない。逆説的のようではあるが、この<中心化>が、<自己化>を達成するのは、視点の変換によってである。

自己性は、他なるもの(他性)を介する私の対他存在の把握をとおして確立される。ふつう他性としてはたらくのは他者であり、私の対他者存在にほかならない。しかしふつういわれる意味でのこの対他存在の下層には、もう一つの意味での対他存在、すなわち他性を介するもう一つの原初的な自己把握である前人称的な対他物存在が潜在している。私が石にさわるとき、同時に私は石によってさわられているのであり、こうして私は、他なるものによって対象化された私の対他物存在を把握する。

二つの対他存在は、幼児期には、おそらく未分化のまま把握されていたのであり、他者が分化するとともに、対他者存在としての自己が、より明瞭に把握されるようになったのであろう。しかし意識されることがまれであるとはいえ、対他物存在による世界との入り交いは、われわれの世界認識の基底に潜在する基本的な構造であり、世界の深みをさぐる鍵ともなるものでもある。それは、われわれと世界との親和と異和の深い繰り返しを形成する。

    ―― 市川浩「現代芸術の地平」より抜粋引用


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春−22>
 おほかたの春の色香を思ひ寝の夢路は浅し梅の下風  後柏原天皇

柏玉和歌集、春上、祢覚梅風。
寛正5年(1464)−大永6年(1526)、後土御門天皇の第一皇子、応仁の乱後の都の荒廃、朝廷は財政逼迫の渦中で即位。連歌俳諧時代の和歌推進者であり、書道にも長けていた。
邦雄曰く、早春、既にたけなわの春を思い描き、おおよそは味わい尽しつつ眠りに落ちる。短い春夜に見る夢はたちまちに覚め、その覚めぎわに、清らかな梅の香が漂ってくる。珍しい四句切れ体言止め。御製集は秀歌に富み、三條西実隆の雪玉集、下冷泉政為の碧玉集とともに、和歌復興期の三集をなす、と。


 花の色も月の光りもおぼろにて里は梅津の春のあけぼの  他阿

他阿上人家集。
嘉禎3年(1237)−文保3年(1319)、他阿弥陀仏と号し、はじめ浄土宗の僧であったが、建治3年(1277)九州遊行中の一遍上人に入門。一遍に従って全国各地を遊行遍歴。一遍没後はその後継者として時宗第二祖となる。北陸・関東を中心に活動し、嘉元元年(1303)、相模国当麻山無量光寺に道場を開く。
梅津−山城の国の歌枕、桂川の左岸の荷揚げ地で、梅宮神社がある辺り。
邦雄曰く、平家物語にも「比は如月十日余りのことなれば、梅津の里の春風に、余所の匂ひもなつかしく」とあり、梅津は梅の名所であった。花の名は言わず地名でそれと知らせるあたり洒落ている。他阿は京極・冷泉両家とも交わり、作歌をもよくした、と。


⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。