聞くたびに勿来の関の名もつらし‥‥

051129-019-1

−今日の独言− パースペクティヴⅣ<脱中心化と可逆性>

視点の変換がくりかえされ、中心を移動する操作がかさねられるにつれて、身体図式にひずみが生じ、臨界点に達するとともに、ゲシュタルト・チェンジによって、身体図式が構成し直される。個々の中心化作用は、いわば身体的に反省された中心化作用としてしだいに中心化され、仮説的になる。パースペクティヴは特定の状況への癒着から解放され、可動性と可能性をもつようになる。
このような脱中心化は、感覚・運動レヴェルでもすでにはじまっているが、それが仮設的性格をもっているかぎり、想像力や思考がはたらく表象レヴェルの統合に達して、はじめて十全に実現される。<いま−ここ−私>に中心化されつつ、<別の時−あそこ−もう一人の私(他者)>へと身を移すためには、私は想像によって表象的な経験をしなければならない。

私の経験のなかで、<いま>と<別の時>、<ここ>と<あそこ>、<私>と<もう一人の私(他者)>が表象として保存されることによって、私のパースペクティヴは互換性を獲得し、経験は可逆的となる。私は知覚的にはここにとどまりつつ、表象の上ではあそこに身を移してみる。さきほどまで<私>はパースペクティヴの原点であったが、いまは転位した私のパースペクティヴのうちに配置された仮設的な対象(他者)となる。あそこはこことなり、ここはあそことなる。他者は私となり、私は他者となる。この中心移動が再度くりかえされると、さきほどの対象はふたたび私となり、表象的経験は知覚的経験とかさなる。これはまさに生きられた反省といえよう。中心化された知覚的経験としてのパースペクティヴは、非可逆的性格が強いのにたいして、脱中心化された表象的経験は可逆的性格をもつのである。

しかしそれが経験をとおして把握されるかぎり、幾何学的遠近法のような可逆的な構図も非可逆的経験の地平の上に成立する。もしこの地平が拒否されれば、経験はもはや誰の経験でもない空虚な経験、現実化することのない空しい可能性となるであろう。このような現実とのかかわりを拒否した<疎隔された脱中心化>においては、対象は一つのパースペクティヴによって中心化されていないかわり、中心を失ってばらばらの存在となり、現実感覚と自己所属感が失われるのである。

    ―― 市川浩「現代芸術の地平」より抜粋引用


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋−24>
 車より降りつる人よ眉ばかり扇のつまにすこし見えぬる  正廣

松下集、五、僅見恋。
応永19年(1412)−明応3年(1494)、近江源氏佐々木氏の一族で松下氏。幼くして出家、13歳より正徹に入門、正徹没後の招月庵を継承する。一条兼良飛鳥井雅親・宗長らと親交。
邦雄曰く、この恋歌の淡彩の爽やかな簡潔さなど、現代短歌の中に交えても佳作としてとおる。事実、寛から迢空にいたる作品中にも同種の歌は散見できる。「怪しげに人もぞ見つる白紙に紛らかしつる袖の玉章は」は顕るる恋、諧謔をさりげなく含ませたところなど、珍しい恋歌である、と。


 聞くたびに勿来の関の名もつらし行きては帰る身に知られつつ  後嵯峨院

後撰集、恋三、實冶の百首の歌召しけるついでに、寄席恋。
勿来(なこそ)の関は、陸奥の国の歌枕、常陸の国と境を接する関所で、いわば化外の地と分かつ所であればこそ、来る勿れとの意から生まれた呼称。現在の福島県いわき市付近とされる。
邦雄曰く、来るなと禁止するその関の名、通っていくたびに冷たく拒まれて、すごすご帰る身には、まことに耳障りなつらい名ではある。六百番歌合の「寄関恋」では、須磨・門司・逢坂などが詠まれ、家隆が「頼めてもまだ越えぬ間は逢坂の関も勿来の心地こそすれ」と歌った。後嵯峨院は勅撰入集200首を越え、うち恋歌は30余首、いずれも趣きあり、と。


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