春の苑くれないにほふ‥‥

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−今日の独言− パースペクティヴⅥ<錯綜体としての心−身>

 すでに価値のヒエラルキーによるパースペクティヴは、意味のパースペクティヴであったが、コミュニケーションの発達は、空間のパースペクティヴを時間のパースペクティヴ(時間地図)によっておきかえ、さらに記号(シグナルやシンボル)のパースペクティヴへと移行させる。隔たりは距離によって示されると同時に、時間によっても、また記号によっても示される。計器運行する列車や飛行機やロケットの操縦者にとって空間は、一連の記号によって構成されている。これらもろもろのパースペクティヴは、たがいに入り組み、われわれは錯綜したパースペクティヴをたえず変換しながら行動する。
 射影幾何学的なパースペクティヴから解放されたわれわれは、数量化された量的空間のみならず、質的な意味空間のパースペクティヴを回復し、より自由な仕方で世界を秩序づけようとする。もちろんこの意味空間は、権威のヒエラルキーによる一義的な価値空間ではありえない。むしろパースペクティヴそのものが、新たな意味空間を出現させるような仕方で構成され、あるいは生成するのである。

 こうしてわれわれは、多次元のパースペクティヴが錯綜する多重の過程を一挙に生き、またつぎつぎとパースペクティヴを変換してゆく。この多次元的な世界の風景は、自己の風景にほかならない。それにもかかわらず世界が一次元的にみえるとすれば、それはあたかも運動体をとらえるストロボ写真のように、われわれがとびとびに特定のパースペクティヴを固定し、また同時にはたらいている他のパースペクティヴを抑圧するからである。実をいえば、この抑圧は自己の風景を抑圧することにほかならない。われわれが世界を恐れるとき、われわれは同時に自己を恐れているのである。

    ―― 市川浩「現代芸術の地平」より抜粋引用


<<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春−25>
 春の苑くれないにほふ桃の花下照る道に出で立つをとめ   大伴家持

万葉集、巻十九、春の苑の桃李の花を眺めて作る二首。
邦雄曰く、天平勝宝二(750)年三月一日の歌。巻十九の冒頭に飾られた、艶麗無比の一首。絵画的な構図色彩の見事さ、感情を現す語を一切用いず、しかも歓びに溢れる。桃李を題材としているところは、明らかに監視の影響だろう。越中に赴任して四年目の春鮒の作品、と。


 水鳥の鴨の羽の色の春山のおぼつかなくも思ほゆるかな   笠女郎

万葉集、巻八、春の相聞、大伴家持に贈る歌一首。
生没年未詳、笠氏は笠氏は吉備地方の豪族、備前笠国の国造。万葉集には大伴家持に贈った計29首の歌があり、家持が和した歌は2首。
邦雄曰く、潤みを帯びた黒緑色を鴨の羽にたぐへたのだろう、新鮮な色彩感覚。愛人の家持にも「水鳥の鴨羽の色の青馬を今日見る人はかぎりなしといふ」があるが、春山のほうが遥かに効果的だ。もっとも歌の真意は、掴みがたい男心に悩む、間接的な訴えだ。万葉期の緑は青と分かちがたく鈍色・灰色をも併せて青と呼んでいたようだ、と。


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