思ひ川たえずながるる水の泡の‥‥

0412190431

−表象の森− 死ぬときはひとり

    生きることをやめてから
    死ぬことをはじめるまでの
    わずかな余白に‥‥

私にとってはかけがえのない書のひとつである「詩的リズム−音数律に関するノート」を遺した詩人の菅谷規矩雄は、1989(H1)年の暮も押し迫った12月30日に53歳の若さで死んだ。直接の死因は食道静脈瘤破裂、肝硬変の末期的症状を抱え、死に至る数年は絶えず下血に悩まされていたという。
この年の春頃からか、彼は上記の3行を冒頭に置いて「死をめぐるトリロジィ」と題した手記を遺している。トリロジィとは三部作というほどの意味だが、古代ギリシアでは三大悲劇を指したようだ。

   悲しみはどこからきて、どこへゆく。
   死は、どこではじまって、どこで終るか。
   胎児は<生れでぬままの永世>を欲している。

死ぬときはひとり―――
 いまここにいたひとりが、いなくなってしまったとしたら、それはそのひとが消えてしまったからではなく、どこかへ行ってしまったからだ。
死がいなくなることであるなら、死んでもはやここにいないひとは、どこかへ行ってしまった、ということなのだ。
どことさだかにできずとも、どこかへゆく、そのことをぬきにして、死をいなくなることと了解することは、できないだろう。
じぶんにたいして、じぶんがいなくなる――ということは了解不能である。
だから、わたしは、<いま・ここ>を「どこか」であるところの彼岸へ、やはり連れ込みたいのだ。
どこへも行かない。この場で果てるのだとすれば、死とはすなわち物質的なまでの<いま・ここ>の消滅である。
だから<いま・ここ>を、あたうかぎりゼロに還元してゆけば、その究みで<わたし>はみずからをほとんど自然死へと消去してゆくことになる。
彼岸ではなく、どこまでもこちらがわで死を了解しようとすれば、それは<いま・ここ>の成就のすがたなのだとみるほかはあるまい。
外見はどのようにぶざまで、みすぼらしくみにくくとも、死は、私の内界に、そのとき、<いま・ここ>の成就としてやってきているのだ。
生きていることは悪夢なのに、なお生きている理由は、ただひとつ、死をみすえること。
死が告知するところをあきらめる−明らめる−こと。

               ――― 菅谷規矩雄「死をめぐるトリロジイ」より


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋−25>
 知るやきみ末の松山越す波になほも越えたる袖のけしきを   藤原良経

秋篠月清集、百首愚草、二夜百首、寄山恋。
邦雄曰く、二夜百首は良経21歳の若書きながら、その題、恋も雲・山・川・松・竹などに寄せて、後年の六百番歌合の先駆をなす。小倉百人一首清原元輔詠の「末の松山波越さじとは」を逆手にとって、「越す波」と、さらに進めて「なほも越えたる」と涙に濡れそぼつ袖を言う。六百番の「末の松待つ夜いくたび過ぎぬらむ山越す波を袖にまかせて」は3年後の作だが、両者甲乙つけがたい、と。


 思ひ川たえずながるる水の泡のうたかた人にあはで消えめや   伊勢

後撰集、恋一。 詞書に「罷る所知らせず侍りけるころ、またあひ知りて侍りける男の許より、日ごろ尋ねわびて失せにたるとなむ思ひつるといへりければ」とあり。
思ひ川−本来、絶えることのない物思いを川の流れになぞらえた表現だが、中世には筑前の国の歌枕とされた。
邦雄曰く、うたかたは泡沫、水の泡、はかないことをいうが、転じて「いかでか」の意。泡もまたうたかた。縁語と掛詞の綴れ織りで、あなたに逢わずにどうして死ねましょうと、甘えかつ怨じている。歌枕も重い意味をもつこと無論である、と。


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