逢ふことは遠山烏の狩衣‥‥

0505120451

−表象の森− Slow-motionとClose-up

日常の行動であれ、スポーツの動作であれ、それがSlow-motionで再現されると奇妙に舞踊といったものに似てくるという経験はだれにでもあるだろう。

動きというものはそれがゆっくりと展開されればされるほど、Reality=現実感から遠ざかるものなのだ。日常的な行動としての意味やスポーツの動作としての意味は失われ、既視感に満ちた一連のまとまりは解体させられ、なんともしれぬ不気味とも不可解ともいうべき世界が立ち現れてくる場合がある。

それは空間的にいえば、micro−微視的からmacro−巨視的へ或いはその逆行、detail=細部の超Close-upにも似ているといえよう。Close-upが映し出すなにか得体の知れない不気味なものへの不安は、カメラが引きその全景が見えてくるにしたがい、それが眠っている人の瞼のひきつりに過ぎないことが分かってしまえばやっと安心することになるが、Slow-motion化はその逆の過程といっていいものだ。

日常的な行動のひとつひとつにも、はじまりかけては抑止され、意識されないまま未発に終ってしまう可能的行動のさざなみのようなものがある。それらのさざなみにともなう無意識の情動は、日常的な行動の連鎖に覆い隠され、抑圧ともいえぬほどの軽微な抑圧によって滓(おり)のように沈殿し、われわれ自身気づかぬ鬱屈を積もらせていく。

Slow-motionやClose-upは、日常的・実用的な行動の意味を解体させることによって、未発に終った可能的行動や表出されなかった鬱屈を滲み出すように現前させる。それと同時にわれわれの眼差しを非日常的な視線へと変換することによって、Metaの眼の可能性さえも開示することになる。
                     ―――参照 市川浩「現代芸術の地平」


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋−26>
 逢ふことは遠山烏の狩衣きてはかひなき音をのみぞ泣く   元良親王

後撰集、恋二。
邦雄曰く、秘かに通っていた女から、摺衣の狩装束を贈られたので、その返しにという意味の長い詞書あり。縁語と掛詞を華やかに配慮し、結句の涙が一首の挨拶と見えるほど、めでたい姿である。高貴の美丈夫にふさわしい朗々たる句、と。


 蘭の花うら紫の色に出て移り香さへも絶へしなかかな   木下長嘯子

挙白集、恋、恨絶恋。
邦雄曰く、蘭は藤袴の古名。花の色の「うら紫」と「恨むる」を懸け、絶えた縁を良経の六百番歌合にちなんで、「移り香さへも絶へし」としたところ、技巧派の面目はあきらか、と。


⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。