おもひやれ空しき床をうちはらひ‥‥

0510231191

−表象の森− 海神の馬

19世紀末のイギリスで活躍した絵本挿絵画家ウォルター・クレインが残した油絵の代表作に「海神の馬」というよく知られた幻想的な作品がある。絵を見れば記憶のよみがえる人も多いだろうが、海岸に打ち寄せる波の、その砕けた波頭が、たてがみをなびかせて疾走する無数の白い馬に変身しているという絵だ。

辻惟雄「奇想図譜」では、このほとばしる波が疾駆する馬へと変身するという奇怪な着想の先駆をなした絵師として曽我蕭白の世界に言及する。「群馬群鶴図屏風」がその絵だが、蕭白は18世紀の上方絵師、生没年は1730年−81年で、クレインとは一世紀あまり隔たっている。波を馬に見立てた蕭白の趣向は、江戸の浮世絵師、北斎に受け継がれているとも見える。「富嶽百景」シリーズの「海上の不二」では、砕けた波頭のしぶきかとまがう群れ千鳥の飛翔の姿がみどころとなっている。

クレインが「海神の馬」を描いた19世紀末は、パリ万国博のあと、フランスやイギリスではジャポニズム流行のまっただなかであった。海野弘も「19世紀後半にヨーロッパ絵画で波の表現が急に増えるのは、おそらく光琳から北斎にいたるジャポニズムの影響と無縁ではないはずである」と指摘している。時代も空間も隔てたクレインと蕭白の、波が馬にと変身するという着想は、おそらく偶然の一致なのだろうが、クレインの幻想的イメージ形成に、北斎の波の変奏が一役買ったのではないかと想像するのは、それほど突飛なことではあるまい、と辻惟雄は結んでいる。

想像力におけるシンクロニズム−同時性−や伝播力について、さまざま具体的に触れることはたのしく刺激的なことこのうえない。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋−28>
 おもひやれ空しき床をうちはらひ昔をしのぶ袖のしづくを   藤原基俊

千載集、哀傷。
邦雄曰く、詞書には「女に後れて歎き侍りける頃、肥後が許より問ひて侍りけるに遣はしける」とあり、弔問への返事である。死におくれることの哀れは、来ぬ人を待ちつつ荒れる床にひとりを嘆く哀れよりも、袖の雫はまさろう。これこそまことに他界にまで続き、永久に絶えることのない相聞であろう。基俊の歌風は伝統重視、新風の俊頼とは対立した、と。


 菅原や伏見の里の笹まくら夢も幾夜の人目よくらむ    順徳院

後撰集、恋二、名所の百首の歌召しける時。
菅原や伏見−大和国の歌枕。奈良市菅原町、行基ゆかりの古刹菅原寺があり、秋篠川支流域の菅の群生原野。
邦雄曰く、古今・雑下に「いざここにわが世は経なむ」と歌い、千載・秋上に俊頼が「なんとなくものぞ悲しき」と取って「菅原や伏見の里」も、伊勢物語深草に劣らぬ名所となった。恋の夢の通い路をこの里の笹に取った趣き。作者の溢れる詩藻が、詞に咲き出たかのような優しい恋歌、と。


⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。