花鳥もみな行きかひて‥‥

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−表象の森− こどもの日

 端午の節句の由来は、中国の春秋戦国時代屈原にあるというから今から2300年もさかのぼる。諫言に遭い楚王より左遷された憂国の士屈原は、故国の将来に絶望し、石を抱いて汨羅江(ベキラコウ)に入水自殺したのだが、その日が旧暦の5月5日と伝えられる。楚の民たちは、屈原の無念を鎮める為、或いはその亡骸が魚の餌になどならぬようにと、こぞって小舟を出し、太鼓などを打ち鳴らして魚をおどしたり、笹の葉に米の飯を包んだチマキを投げ入れたりしたという。これが今日東アジアの各地で行われている龍舟比賽(ドラゴンレース)の発祥ともなり、粽(チマキ)の由来ともなった訳だ。

 こどもの日につきものの鯉幟のほうはどうやら日本独自のものらしい。時代はぐんと下って江戸中期、武家社会では兜の飾りや幟などを立てる風習が古くから広くあったようだが、現在のような空高く泳ぐ鯉のぼりへと考案され広まったのは町民たちによったものとされる。その発想はもちろん中国の故事「竜門の滝を登りきった鯉は竜と化して天翔ける」すなわち「登竜門」に負っている。

 そのこどもの日、初夏の陽気に誘われるように、幼な児を連れて久しぶりに蜻蛉池公園まで出かけたが、さすがたいそうな賑わいで弁当持参の家族連れの人、人、人。府運営の公園だから入園料も要らないし、広大な園内には遊具もかなり充実している。半日遊びまわって過ごせば、小さな子ども達にとっては楽しい休日となろう。駐車料のみ600円也を要するが、商業施設のディズニーや遊園地などと違って金のかからぬささやかな楽園だ。大きな池と樹々と花々にも恵まれ空気も美味い。ここにはやすらいだ家族たちの、それぞれの絆のカタチがある。こどもは4、5歳児から小学校低学年くらいまでがほとんどだが、この時期、親子であるいは祖父母も交えてのこういった時間が、幾たびか重ねられ、たしかな懐かしい記憶として形成されるならば、いまどきの世間を騒がせる家族崩壊ゆえの悲惨な殺傷事件など起こる筈もないのだが。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏−01>
 花鳥もみな行きかひてむばたまの夜のまに今日の夏はきにけり   紀貫之

貫之集、四、天慶五年、亭子院の御屏風の料に歌二十一首。
邦雄曰く、旧暦4月1日の朝ともなれば、世界は一変して「夏」の光が満ち溢れる。桜も鶯も春に生きたものすべて、過去の国へ向かい、同じ道を奔ってくる「夏」とすれ違う。それも3月31日の深夜に。「行きかひて」の第三句が細部まで具象を伴って思い描けるのも、貫之の言葉の持つ力であろう、と。


 雲のゐる遠山鳥の遅桜こころながくも残る色かな   宗尊親王

古今集、夏、三百首の歌の中に。
邦雄曰く、夏になってもなお春を懐かしむ人々は、遅桜に心を託しなごりを惜しもうとする。新古今・春下巻頭の後鳥羽院の「桜咲く遠山鳥のしだり尾の」を見事に復活して結句で夏を暗示した。作者は後嵯峨帝第一皇子、続古今集には中務卿親王の名で、為家らが67首を選入した、と。


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