今朝よりは袂もうすくたちかへて‥‥

0511290731

−表象の森− 愚にかへる

  春立つや愚の上にまた愚にかへる

山頭火ではない、一茶の句だ。
文政6(1823)年、数えて61歳の還暦を迎えた歳旦の句である。
前書に「からき命を拾ひつつ、くるしき月日おくるうちに、ふと諧々たる夷(ヒナ)ぶりの俳諧を囀りおぼゆ。−略−今迄にともかくも成るべき身を、ふしぎにことし六十一の春を迎へるとは、げにげに盲亀の浮木に逢へるよろこびにまさりなん。されば無能無才も、なかなか齢を延ぶる薬になんありける」と。自分の還暦に達したことを素直に喜びながら、それも「無能無才」ゆえだと述懐している。
また文政5(1822)年の正月、「御仏は暁の星の光に、四十九年の非をさとり給ふとかや。荒凡夫のおのれのごとき、五十九年が間、闇きよりくらきに迷ひて、はるかに照らす月影さへたのむ程の力なく、たまたま非を改めんとすれば、暗々然として盲の書を読み、あしなへの踊らんとするにひとしく、ますます迷ひに迷ひをかさねぬ。げにげに諺にいふとほり、愚につける薬もあらざれば、なほ行末も愚にして、愚のかはらぬ世を経ることをねがふのみ」とあり、ここにも愚の上に愚をかさねていこうという覚悟は表れているが、その胸底には、非を改めようとしても改めきれない業のごときものへの嘆きが、切実に洩らされているのだともいえようか。
類句に「鶯も愚にかへるかよ黙つてる」−文政8(1825)年作−がある。


山頭火もまた「愚にかえれ、愚をまもれ」と折につけ繰り返したが、その山頭火が一茶に触れた掌編があるので併せて紹介しよう。

  大の字に寝て涼しさよ淋しさよ

一茶の句である。いつごろの作であるかは、手許に参考書が一冊もないから解らないけれど、多分放浪時代の句であろうと思う。
一茶は不幸な人間であった。幼にして慈母を失い、継母に苛められ、東漂西泊するより外はなかった。彼は幸か不幸か俳人であった。恐らくは俳句を作るより外には能力のない彼であったろう。彼は句を作った。悲しみも歓びも憤りも、すべても俳句として表現した。彼の句が人間臭ふんぷんたる所以である。煩悩無尽、煩悩そのものが彼の句となったのである。
しかし、この句には、彼独特の反感と皮肉がなくて、のんびりとしてそしてしんみりとしたものがある。
「大の字に寝て涼しさよ」はさすがに一茶的である。いつもの一茶が出ているが、つづけて、「淋しさよ」とうたったところに、ひねくれていない正直な、すなおな一茶の涙が滲んでいるではないか。
切っても切れない、断とうとしても断てない執着の絆を思い、孤独地獄の苦悩を痛感したのであろう。一茶の作品は極めて無造作に投げ出したようであるが、その底に潜んでいる苦労は恐らく作家でなければ味読することができまい。
いうまでもなく、一茶には芭蕉的の深さはない。蕪村的な美しさもない。しかし彼には一茶の鋭さがあり、一茶的な飄逸味がある。


ちなみに「大の字に寝て」の句が詠まれたのは、文化10(1813)年、一茶51歳の時。人生五十年の大半を、江戸に旅にと、異郷に暮らし、しかも義母弟との長い相剋辛苦の末に得た故郷信濃の「終の栖」に、「これがまあつひの栖か雪五尺」と詠んだ翌年のこと。
この点は山頭火の記憶違いである。

        ―――参照 加藤楸邨「一茶秀句」、種田山頭火山頭火随筆集」


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏−02>
 三島江に茂りはてぬる蘆の根のひとよは春をへだて来にけり   藤原良経

千五百番歌合、夏一。
三島江−摂津国の歌枕、大阪府高槻市に三島江の町名が残る。嘗ては淀川右岸が入江を形成していた。
邦雄曰く、弥生も終りのその一夜を境として、彼方は春、此方は夏、水辺の青々と茂りに茂ったあの蘆の一節(ひとよ)もまた、春を隔ててすっくと立つ夏のもの。後鳥羽院第三度百首歌・夏15首の冒頭に飾られた、と。


 今朝よりは袂もうすくたちかへて花の香遠き夏ごろもかな   後花園院

新続古今集、夏、百首の歌召されしついでに、更衣の心を。
応永26(1419)年−文明2(1470)年、後崇光院の第一皇子。正長元(1428)年、称光天皇が崩ずると、皇位南朝系に移るのを怖れた幕府に推され、立太子を経ず践祚。飛鳥井雅世に「新続古今集」を選進させた。応仁の乱勃発(1467)に際しては中立を保ちつつ、その年の末に乱の責をとって自ら出家。家集に「後花園院集」、勅撰入集は新続古今集の12首。
邦雄曰く、夏が立てば衣もうすものに裁ち変える。「花の香遠き」には、心新たに夏を迎えながら、なお花の春を忘れかねている躊躇いが匂う。類歌は無数に存在するが、洗練度はこの歌に極まろう、と。


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