桜いろに染めし衣をぬぎかへて‥‥

N0408280561

−表象の森− 家二軒

  さみだれや大河を前に家二軒

つとに知られた蕪村の句。子規以来、写生句の代表的なものとしてよく引き合いに出され、そのきわだった絵画的なコントラストが人口に膾炙されるが、安東次男はこの句の裏に隠されたもうひとつの面影を見る。

安永6(1777)年、蕪村62歳の吟だが、この句は娘を婚家から連れ戻したときの句であるという。娘の嫁ぎ先は三井の料理人柿屋伝兵衛といわれ、今に残る名代の茶懐石「柿伝」の先祖とみられる。嫁いだのが安永5年12月で、連れ戻したのは翌年5月というから、わずか半年の破綻。
幼い時よりなにかと病がちの娘だったらしく、掌中の珠のごとくにして育てた一人娘だったから、もともと商家との縁組に、必ずしも気乗りがしていなかった節もみえるとか。
蕪村は5月24日付のある人への手紙に「むすめ事も、先方爺々専ら金まうけの事にのみにて、しをらしき志薄く、愚意に齟齬いたし候事多く候ゆえ取返し申し候。もちろんむすめも先方の家風しのぎかね候や、うつうつと病気づき候故、いやいや金も命ありての事と存じ候にて、やがて取戻し申し候」と書き送り、次の二句を添えている。

  涼しさや鐘を離るゝ鐘の声

  雨後の月誰そや夜ぶりの脛(はぎ)白き

「家二軒」という写生の句に、そういった背景から否応もなく色濃く浮かび上がっくるのは、大自然の力を前にして、身を寄せ合って生きるものの表象であり、それは蕪村と娘の姿と読み替えてよいものだろう。手紙に添えられた二句の、「鐘を離るゝ鐘の声」といい、「脛白き」といい、そこに立つ面影も、断ち得ぬ親の情にふと忍び込んできたイメージの幻覚があり、あろうはずもないその姿や状況に作者ははっと驚いている、と次男氏。

同じ日に詠まれたという一句

  網をもれ網をもれつゝ水の月

この「水の月」にも娘の面影がにじむ。

それにしても「鐘を離るゝ鐘の声」や「網をもれ網をもれつゝ」の、余情のしじまに微かに匂う憂愁の気とでいうか、その深遠になかなか届くものではない。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏−03>
 桜いろに染めし衣をぬぎかへて山ほととぎす今日よりぞ待つ   和泉式部

拾遺集、夏、卯月朔の日詠める。
邦雄曰く、桜が散って四月ともなれば、花染衣昨日のものとしてうすものに着替え、初夏の主役はほととぎす。それもまだ遠音の山ほととぎす。この歌、後拾遺・夏の巻首に選ばれた秀作。「ぬぎかへて」「待つ」の照応も律動的で、春巻首の年頭歌などとも、互いにめでたく呼び交わすような趣である、と。


 春さればすがるなる野のほととぎすほとほと妹に逢はず来にけり   作者未詳

万葉集、巻十、夏の相聞、鳥に寄す。
すがる−蜾蠃−ジガバチの古名。腰細蜂とも書かれるように、腹部が細く、美女の容姿に譬えられる。
邦雄曰く、夏の相聞の冒頭に選ばれている。春から夏へと、ジガバチの生れる野、その野に鳴くほととぎす、ほとんど危うく、愛する人に逢わずじまいになるところだったが、どうやら逢えたと吐息をついている。長い序詞のため、省かれた言葉が多く、あまた補わねば意味が通じない。そのもどかしさが新鮮で芳しいともいえようか、と。


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