鶯の古巣より立つほととぎす‥‥

0412190371

−表象の森− 死せるキリスト

「こんな死体をまのあたりにしながら、どうしてこの受難者が復活するなどと、信じることができたろうか?」と、ドストエフスキーは「白痴」のなかで死の直前のイッポリートに語らしめたが、その問題の絵が、木版画シリーズの「死の舞踏」で知られた16世紀前半に活躍したドイツの画家ハンス・ホルバインの描いた「死せるキリスト」である。「墓の中のキリスト」とも呼ばれるこの絵は、横2m、縦30cm余りの横長の画面一杯に棺が描かれ、その中に仰向けに長々とイエス・キリストの死体が眠るという異様な構図は、たしかに復活など思いもよらず、ここにあるのはキリストの屍骸そのものであり、まるでイエスの肉体が墓そのものに化したかのごとく、ひたすら自然としての肉体の死そのものを突きつけられる感がある。

ホルバインが現に見もし、この絵の動機ともなったというのが、イタリア・ルネサンス期のマンテーニュ(1431−1506)の代表作といわれる「死せるキリスト」だが、触発されたというもののその構図といい画調といい両者はまるで別世界だ。マンテーニュの絵ではイエスの遺体を縦に、足元から描いている。ベッドの上に仰向けに寝かされた遺体の横には、聖母マリアマグダラのマリア、二人のマリアが歎き祈るがごとくかしずいており、ゴルゴダの丘での磔刑になぞらえるなら、十字架の真下からイエスの遺体を仰ぎ見るような構図となっているが、これは観る者をしてキリストへの崇敬を暗示させるものかもしれぬ。

それにしても、ホルバインのキリストが骨と皮ばかりの痩せ細った、まるで解剖学的な屍骸としかいいようのない様相であったのに対し、マンテーニュの遺体はボリューム感にあふれ筋骨隆々として、ただ眠るがごとくで体温まで伝わってきそうな絵である。描かれた時期がたかだか半世紀足らずの隔たりしかないなかで、彼我のかほどの相違がなにに因るのか興味深いものがある。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏−04>
 ほととぎす声をば聞けど花の枝にまだふみなれぬものをこそ思へ   藤原道長

新古今集、恋一、兵衛佐に侍りける時五月ばかりによそながら物申し初めて遣しける。
邦雄曰く、道長まだ二十歳になるならずの初々しい恋歌。ほととぎすとは想う人、その声を気もそぞろに聞きつつ、文を贈ることもできずただ悩んでいると訴える。ほととぎすの踏むのは橘の花の枝、縁語・掛詞を駆使しながら、なにかたどたどしい技巧が微笑ましい。馬内侍への贈歌だが、彼女からの忍恋のあはれ深い返歌「ほととぎすしのぶるものを柏木のもりても声の聞こえけるかな」と並ぶ、と。


 鶯の古巣より立つほととぎす藍よりも濃きこゑの色かな   西行

聞書集、郭公。
邦雄曰く、時鳥はみずから巣を造ることなく、鶯などの巣に卵を産みつけ、孵すのも育てるのもあなた任せ。鶯の巣から出て、鶯にも勝る美声を、出藍の誉れに譬えて「藍よりも濃き」としたのだろう。「声の色」が面白い。言語遊戯の類ともみえるが、西行の歌の異色として忘れがたい、と。


⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。