しぐるるやしぐるる山へ歩み入る

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<古今東西−書畫往還>


富岡多恵子「中勘助の恋」を読む−


ずいぶんと面白かったし、非常に興味深く読んだ。
著者が雑誌「世界」に、折口信夫歌人としての筆名「釈迢空」は戒名であったと、彼の出自と形成にまつわる謎に挑んだ「釈迢空ノート」の連載を始めたのは98年5月、以後季刊ペースで10回の連載のうえ、これをまとめ岩波書店から出版されたのが2000年10月だが、本書「中勘助の恋」は著者畢生の書ともいうべき折口信夫解読へと、勘助の少女愛と折口の少年愛ともいうべき同性愛的傾向の対照のみならず、女性嫌悪によって成り立ってきた家父長制を色濃く残したまま、近代的自我に目覚めていかざるをえなかった相克のうちに、ともに際立って固有の信仰と性を秘めた特異な作家であった点においても、後者は前者の露払いの役割を果たしているように見受けられる。


<引用>
「さあここへいらつしゃい」
と膝をたたいてみせたら向こうむきに腰かけた。
 「顔が見えないから」
といへば
 「ええ」
と同感なやうなことをいつてこちらむきに膝のうへへ坐らうとするのを
 「跨つたはうがいい」
といつてさうさせる。このはうが自由にキスができる。右の頬へいくつかそうつとキスをする、今日切つたばかりの眼が痛まないやうに。こなひだのものもらひを瞼の内側から切つたのだ。妙子さんは今日はなんだか沈んでる様子でしんみりと懐かしさうに話す。私はまたひとつキスをして
 「これどういふときするもの」
ときく。
 「知らない。」
 「あなた私にしてくれだぢやありませんか」
 「わかつてるけれどなんだかいへない」
ほんとにどういつていいかわからないらしい。
 「私あなたが可愛くてかはいくてたまらないときするのよ。あなたも私が可愛くてかはいくてたまらないときするの?」
 「ええ、さう」
今夜はどうしたのかいつまでも誰もでてこないので存分可愛がることができた。妙子さんもいつになく膝のうへにおちついてなにかと話す。私はただもう可愛くて可愛くて抱きよせては顔を見つめる。
 「あなた私大好き?」
 「大好き」
 「でも今に忘れちまうんでせう」
 「お稽古が忙しくなれば忘れるかもしれない」
 「私どんなに忙しくたつてあなたのこと忘れないのに、ひどい」
 「そりや私子供だから」
妙子さんは綴り方の話をしだした。点のわるいのが気になるのだ。
 「あなたがお嫁にくるまでに文章が上手にかけるやうに私がすつかり教へえてあげるから」
といへばさも安心したらしく、また嬉しさうに、習ひにくる といふ。いぢらしくて、いとしくてならない。さうしてるあひだにも時どき 私が好きでたまらない といふやうに胸を押しつけて、顎を肩へのせてそうつとすがりつく。
             ――――――(四月十九日)


日記体随筆というべきスタイルで書かれた中勘助の「郊外その二」のなか「四月十九日」と題された文の一節である。
この著作の初めの日付は大正15年12月26日となっているが、この時、中勘助31歳、一高時代からの親友江木定男の娘、妙子は8歳であった。
中勘助といえば「銀の匙」一作でもって文芸史に聳え立つ孤高の作家と目され、「銀の匙」愛好の裾野はたいへん広いものがある。もう20年近くさかのぼるが、1987(S62)年、60周年を迎えた岩波文庫は「心に残る三冊」というアンケートを、各界を代表する読者に行い、その結果を「私の三冊」として発表しているが、そこで最も多く挙げられたのが「銀の匙」であった、というほどの人気ぶりである。
「不思議なほど鮮やかな子どもの世界−和辻哲郎評−」が描かれ、「これを読むと、我々は自身の少年時代を懐かしく思い出さざるを得ない−小宮豊隆評−」と幼少年期への郷愁が掻き立てられ、「弱くとも正しく生きようと願う人間にとって、これほど慰めと力を与えられる愛情に満ちた作品は稀有−河盛好蔵評−」と静謐無垢なる世界によるカタルシス効果を賞賛されてきた「銀の匙」世界に比して、「郊外その二」に描かれた幼少女への些か異常ともいうべき偏愛は、意想外の対照を示して大いに驚かされる。


<抜粋−1>
幼児期の妙子を熱愛したときから、それは<永年の相愛の関係>であり、<相愛の因縁>である。勘助が「父」になろうとすればするほど、妙子の勘助への<愛恋>は濃くなる。
逆に考えれば、勘助が妙子からの「父になってくれ」との懇願を受け入れたのは、自身の妙子への執着に他ならない。代理であれ「父」となれば、その名分によって妙子との<永年の相愛の関係>を断ち切ることなく、曖昧に持続できる。勘助は理想としては、仏陀の慈悲によって妙子の<真の父>として「娘」を抱擁することだったといいたいのだろう。ただしその不可能性をはじめから認識しているからこそ、妙子への不憫が重なる。
この堂々巡りの苦悩の元は勘助の妙子への<熱愛の焔>であって、妙子の「父になってくれ」との懇願によるものではない。


ここにおいて、富岡多恵子は、勘助の無意識に内在する欺瞞の、または偽装の構造を喝破している。
以下長くなるが、彼女自身の語る中勘助解読の道筋を適宜かいつまんで追ってみよう。すれば理解の程も深まるというもの。


<抜粋−2>
提婆達多」において若き悉達多に「生殖の罪は人間のいかなる罪よりも罪である。それは実に簒奪よりも殺虐よりもさらに大いなる罪である‥‥」と言わしめた勘助は、日記「沼のほとり」で「私は死を望んではゐない。生を望んでもゐない。私が心から望むのは「私」が存在しなかったことである。」と記している。<生殖の罪は人間のいかなる罪よりも罪である>というのは、色欲それ自体にいかにおぼれて死ぬともそれはその人間の一代限りであるが、生きることで数えきれぬ苦しみに悩まねばならない人間を生み出すとすれば、それは大いなる罪だとすることであるが、−これは転倒した危険な思想というしかない−人間の社会は生殖によって成り立ち、それによって永続していくという幻想の上にあるからである。いい代えれば、性の快楽自体が生殖を切り離しうるならば、それがゆがめられ拡大されても人間社会にとって本質的に「危険」なものではない。しかしここには、色欲を断つのは、快楽を断つのが目的ではなく生殖を断つためではないかとの、中勘助の見逃すことのできない強い「思想」がある。

注−「提婆達多」は「銀の匙」発表の8年後、大正10(1921)年刊行の小説。シッダルタ(仏陀)に嫉妬と復讐の念を抱き叛逆したといわれるデーヴァダッタを主人公としている。


<抜粋−3>
<生殖の罪>を糾弾し、<私が心から望むのは「私」が存在しなかったこと>だといった者が、妙子(友人江木の娘)や京子(和辻哲郎の娘)のような<小さな人達を可愛がるために生まれてきた>という。
不思議の国のアリス」のルイス・キャロルが、66歳で死ぬまで独身であったこと、成人した女性と関係できぬ「小児愛」者だったことは、今日ではよく知られている。精神医学では、「小児愛」には「本来の性対象に接近、交流する能力や環境に恵まれないために小児を選択する代償性小児愛」と、「未熟な自己イメージを小児に投影することによって対象と同一化する−ナルシズム的対象選択」である「真の小児愛」の二つの型があるとされている。
妙子を可愛がり、京子に恋文を書く、勘助の「不気味さ」は、万世(江木の妻、妙子の母)をはじめとする女性たちとの性的な関係忌避へとつながると思えるが、その指摘がこれまでにないのは、一つには勘助自身の隠蔽の巧妙さ(日記体随筆)があり、一つには家父長制の社会システムがあるのではないか。
<倒錯に対する親和性がきわめて高い>家父長制の社会に、勘助はじめ彼ら−友人江木や和辻哲郎ら−は生きていたからではないか。
強固な家父長制は、娘・嫁・母・妻・妾のような役割によって「女」を分断して、未分化の「女」が生きるステージを与えない。逆にいえば、そういう社会での「男」は「女」と対峙しないで過ごすことができ、母の息子、家族には家長、妾その他奉公人には雇い主、娼妓には客といった役割に、時と場合で出入りする。
そういう家父長制社会であったればこそ、たまたま男が「幼女」を可愛がったとしても、そこに性行動の入り込む隙があるとは認識されていないのだ。


<抜粋−4>
勘助の、「幼女」妙子への接触や京子への恋文は、明らかに彼の性的行動の発現ということができる。しかしそれは「女」に対するものではなく、あくまで「幼女」相手である。「幼女」たちは性的に未成熟であるために性的脅威を与えない。
このことによって、男(勘助)の性行動は「女」の性によって自己愛を阻害されることなく、自分のファンタジーの通りに「幼女」を愛の対象に造型できる。<私の愛には矛盾も齟齬もない><それは海のごとくに容れ、太陽のごとくに光被する>とはなんたる自己愛に満ちた肯定か。


<抜粋−5>
勘助は「銀の匙」に登場する「伯母さん」に生まれた時から育てられた。母は同居してはいるが、勘助が母に「可愛がられる」ことは、絶対的守護者である伯母さんによって無意識に封じられている。妹(母)の家に<厄介>になっている伯母さんの善意のエゴイズムがそこにある。伯母さんが「ひと様に厄介になってなにもしないでいると心苦しい」という人物だったのは「銀の匙」にあるとおりで、勘助養育は妹の家に寄宿する伯母さんの「仕事」ともいえるからである。
<私どもは世の親と子があるやうにお互いに心から愛しあってゐながら、すくなくとも私のほうではよくそれを承知してゐながら真に打ち解けて慣れ親しむことができず、いつも一枚のガラスを隔てて眺めるような趣があった。>というように、勘助と母とのあいだにはつねに、もどかしい距離感があったとしても不思議ではない。「母の死」に、死に近い母の頬を見舞うごとに愛撫し、だれかれを識別できなくなった母に顔を近づけ<かはいいでせう>といい、<そりゃ子だもの>と母にいわせる場面があった。
そこには、母とのスキンシップを求め、言葉によっても「可愛い」と愛撫されたい「子」がいる。この「子」は、自身が「幼女」を可愛がったと同じようにして母に可愛がられたかった。
伯母さんの無私ともみえた絶対愛、生きものへの限りないいたわりを教えた<仏性>、遊びを通して発揮された芸術的感受性、それらを惜しみなく与えられてなお、その子は母に愛撫を求め、それが充たされぬ疎外感をもちつづけていたのがわかる。


−ここで参考までに、J.クリステヴァの言葉を引いておきたい。
「他人への配慮をする行為は、本質的に地味な一種の自殺を要求される。配慮と献身を混同してはならない。献身するということは利己主義的であり、利己主義は自己への憎しみの隠蔽以外のなにものでもない。それに反して、配慮は自己の清算から生じるのである。私の内実も、他の人の内実も、どんな内実も絶対的ではない。ならばこそ、配慮においては、私を消滅させるために、私は私自身の知を用いるのである。しかも、人目につかぬ地味な仕方で。」
この「配慮」と「献身」の、似て非なるものの対照は、伯母の勘助への、配慮というよりは献身的なまでの愛の包容が、実相はいかなるものであり、生涯を通して勘助の無意識にどのような影を落としたかを想像するに、大いに手がかりを与えてくれるのではないだろうか。


<抜粋−6>
日記体随筆の「日記体」こそは、時間のずれを利用しての現実の偽装に適している。現実を偽装することで、自己矛盾、自己否定はすべて隠蔽可能となり、自己の絶対的肯定−まるで聖書のコトバのような箴言に収斂していく。
私小説」には、語り手(一人称)が中性化を体験し、三人称を通過してのちに獲得された、対象化、客観化が可能な「私」が必要である。中勘助は、そういう「私」を獲得しなかった。というよりそれを回避したのである。
私小説」に必要な「私」には、対象化によって自己否定、自己批評が当然含まれる。それは自己愛と対立する。「私小説」はどれほど自己肯定、自己正当化を目論んでも、「小説」というその近代作法自体がそれを暴いてしまうという魔力、いや批評性を内包している。
したがって「私小説」によって生じる自己客体化と自己批評の危険を、日記体という型の利用で未然に防いでしまったのである。「私小説」という虚構は、残忍,酷薄のはずだ。
しかしそこには、<詩をつくることより詩を生活することに忙しかった>という詩人・中勘助の、小説=虚構にひそむ虚偽を見透すニヒリズムがあるともいえる。勘助は、求愛された成人女性との性的関係で一度も心身の傷を受けずに<道徳的>愛とやらで女性を脅迫しつづけたともいえる。
彼の「日記体随筆」は、他者(女性)との性による関係を周縁に追いやった、自己愛の円環的完結である。


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