夕暮はいづれの雲のなごりとて‥‥

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−表象の森− 八幡と稲荷

東大寺境内の東の端には手向山八幡宮があるが、これは東大寺建造事業にあたり九州の宇佐八幡神八百万の神を代表して祝福した故事に由来するという。この故事は仏教をもって鎮護国家をなそうとする聖武帝の強い意志の反映であろうが、この国ならではの宗教のカタチである神仏習合−神と仏がなかよく祀られるようになること−へと先鞭をつけたことにもなろうか。


京都の伏見稲荷大社弘法大師空海と所縁が深い。明治の神仏分離廃仏毀釈以前は、真言密教の愛染寺が稲荷社の本願所として祀られていたという。
9世紀前葉、時の権力者嵯峨上皇の信任厚い空海は東寺を下賜され、密教の根本道場へと造営にのりだす。その建設資材にと伏見稲荷山付近の巨木を伐り出させたため、その祟りが淳和帝に降りかかり病に臥した。稲荷社の怒りを鎮めるため神格を上げ、平癒祈願をするも、淳和帝はあえなく死んでしまう。
この事件の奇妙なところは、稲荷神の祟りが嵯峨上皇空海ラインにではなく、直接は関係のない淳和帝に降りかかったことだが、淳和帝死後の承和の変(842年)において恒貞親王(淳和の子)が皇太子を廃嫡されているところをみると、嵯峨上皇直系の皇統に執着する側の謀略かとみえてくる。
いずれにせよ、以後、稲荷社は正一位稲荷大明神と神格を上げられ、その境内には真言密教の茶枳尼天を本尊とする愛染寺が祀られるようになったという。


神社本庁によれば、八百万はともかく、この国には大小8万の神社があるとされる。そのうち4万余りが八幡社、約3万が稲荷社という、両系の圧倒的に占める数字には驚かされもするが、その背景にはこれらの故事が深く関わっているとすれば、少なからず得心もいきそうだ。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏−16>
 さだかなる夢も昔とむばたまの闇のうつつに匂ふたちばな   飛鳥井雅経

明日香井集、上、仁和寺宮五十首、夏七首、夜廬橘。
邦雄曰く、五月闇に香を放つ花橘、読み慣れ聞き飽いた主題だが、新古今時代の技巧派雅経の作は、情趣連連綿、五句一箇所として句切れなく、言葉は模糊と絡み合い、いわゆる余情妖艶の世界を創り出す。決して独創的ではないが、「夢も昔と」、「闇のうつつに」など、巧妙な修辞は、読者をたまゆら陶酔に誘う。


 夕暮はいづれの雲のなごりとて花橘に風の吹くらむ   藤原定家

新古今集、夏、守覚法親王、五十首詠ませ侍りける時。
邦雄曰く、「五月待つ花橘」の本歌取りながら、亡き人を荼毘にふした煙、そのなごりの雲から吹く夕べの風が、花橘に及ぶとしたところ、まことに独創的であり、陰々滅々の趣をも含みつつ、初夏の清かな味わいも横溢している。秀歌名作の多い御室五十首中のもので、新古今夏の部でも屈指の作の一つ、と。


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