袖の香は花橘にかへりきぬ‥‥

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−表象の森− 明治ミリタリィ・マーチ−01

<洋楽>の土着形式

「われかにかくに手を拍く‥‥」と中原中也は詩「悲しき朝」から身をふりほどくように、その最後の一行をしるしている。――中也の詩の根源には、<三拍子とはなにか>の問いときりはなせないような、ひとつの促迫が秘められている。
文明開化によってもたらされた<洋楽>の土着様式は、第一に――等時拍三音の土謡的発想を、強弱拍による二拍子へと変換すること。そのように変換され強化された<時間>が支配の理念とした<近代>であった。
本来、強弱をもたぬ日本語の拍を、西洋的な<拍子−Tact>にのせようとすれば、強迫は音をながく弱拍は音をみじかくとるという対応以外にまずありえなかった。
  2/4拍子 △▲△▲/△▲△▲/△▲△▲/○●/
        △=付点8分音符、▲=16分音符、○=4分音符 ●4分休符
日清戦争期から日露戦争にかけて定着したこのリズムは――明治24年の「敵は幾万」から明治38年「戦友」にいたるまで――明治大衆ナショナリズムの上限から下限にいたる定型化のほぼ全域を覆いつくしている。
旧制高等学校の寮歌のほとんどが、この長短長短のリズム形式でできている。――この貧しさを陶酔に逆立ちせしめ<青春>に居直っているところに、帝国大学出身の上級官僚あるいは大会社の幹部‥‥といった彼らの階級=特権はむきだしにされている。

   ――― 菅谷規矩雄「詩的リズム−音数律に関するノート」より抜粋


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏−17>
 袖の香は花橘にかへりきぬ面影見せようたたねの夢   藤原為子

新千載集、夏、嘉元の百首の歌奉りける時、廬橘。
邦雄曰く、本歌取りの作だけで詞華集が編めるほどの「花橘の香」であるが、名だたる為子は、さらに新味と趣向を添えようとしている。五句各々の用語は殆ど変えずに、「面影見せよ」と命令形四句切れにして、響きを強めたあたり面目躍如というべきか。たとえば式子内親王に、「かへりこぬ昔を今と思ひ寝の夢の枕に匂ふ橘」あり、と。


 五月来てながめ増さればあやめぐさ思ひ絶えにしねこそなかるれ   女蔵人兵庫

拾遺集、哀傷。
生没年、出自ともに不詳。10世紀の女官歌人、女蔵人は内侍の下位。勅撰集にこの一首のみ。
邦雄曰く、康保4(967)年の5月、村上帝崩御、翌年の5月5日に英帝を偲んで、人に贈った悼歌という。長雨と眺め、菖蒲と文目(あやめ)、根こそと音こそ、縁語・懸詞の綴れ織りの感。詞書にはないが、忌日の季節にちなみ、菖蒲の根を添えての贈歌と思われる。歌を贈られたのは宮内卿兼通とある。と。


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