御手洗や影絶え果つるここちして‥‥
−表象の森− ふたつの讃美歌
西洋の曲に日本語の歌詞をのせる場合、日本語の高低アクセントはあたうかぎり無視された。
もともと高低アクセントは可変的で、さほどたしかな恒常性を有していないから、それは可能だったのである。
しかし、ことばのリズム、音数律に固有の法則性は、曲のリズムに対して強度の干渉作用を及ぼさずにはいない。――「神の御子の‥‥」はその点を示唆している。−明治36年版の第417番讃美歌
かみの御子の エスさまは
ねむりたまふ おとなしく
かひばをけの なかにても
うたぬ藁の うへにても
うまが啼いて 目がさめて
わらひたまふ エスさまよ
あしたのあさ おきるまで
床のそばに 居りたまへ
この稚拙な語調は、表現上の限界を示すものと受けとるべきである。六・五音の反覆からなる詩型からもあきらかなように、讃美歌の訳者たちは3/4拍子の曲になんとか六音の律を適合させようと試みている。
その場合、五音のほうは句としてのまとまりを保ちえているのに反して、六音のほうは、「あしたのあさ」をのぞけば、どれも3・3の音節群に分解せざるをえないという特性を示す。これは日本語の語句の構成からすれば、自然であり必然であるところの選択作用を示唆する。
かみの御子の エスさまは‥‥
のごとく1:1:2の拍数比からなる3・3・5の音数律形式は、原曲がもっている3/4拍子リズムを、あたうかぎり日本語固有のリズム構成である4/4拍子へとひきよせずにはおかない。
西洋への同調を意図した訳者たちは、逆に土俗の根柢をよびだすことになった。それとともに旋律もまたリズムの下降に応じて、西洋式の音階から土謡的な音階へ移行するのである。
明治36年といえば新体詩の爛熟期であった。讃美歌の編訳者たちも、それに呼応するかのように、美的な表現を志向する――その一典型ともいえるのが第409番である。
やまぢこえて ひとりゆけど
主の手にすがれる 身はやすけし
まつのあらし たにのながれ
みつかそのうたも かくやありなん
みねのゆきと こゝろきよく
くもなきみそらと むねは澄みぬ
みちけはしく ゆくてとほし
こゝろざすかたに いつかつくらん
されど主よ ねぎまつらじ
たびぢのをはりの ちかゝれとは
日もくれなば 石のまくら
かりねのゆめにも みくにしのばん
曲をはなれて、詩として読んでも美しい。とくに成功しているのは、六・六音の行につづく八音の句からもたらされるテンポの加速、そして一節ごとに四句目の七音の終止形である。
「山路越えて‥‥、松の嵐‥‥、峰の雪‥‥」というように、和歌的な道行の叙景様式を借りることにより、<旅>の主題を、伝統的な美意識の上限で定型化し、それをあらためてキリスト教的な理念の<喩>へと導くことがここで試みられているのだが、道行風の叙景様式は、むしろ理念に逆行して、はてしなく土俗の原型に下降してゆく――つまりは生活意識の倒立像にほかならないものと化す。−松の嵐も、谷の流れも、峰の雪も、生活の崩壊としての<旅>すなわち流浪の眼にさらされることを避けられない。孤独な旅路の終りが近いことを希ったりしない‥‥という彼岸的な逆説=理念の成就に到達する以前のところで、叙景そのものが無化される――それがこの歌の印象を、暗く不透明なものにしたのである。
――― 菅谷規矩雄「詩的リズム−音数律に関するノート」より
<雑−17>
契らずばかけても波の枕せじあはれとぞ思ふ磯の松が根 木下長嘯子
挙白集、旅、旅の歌の中に。
邦雄曰く、海浜の松にことよせて、自らの海行く旅の寂しさを訴える。草枕に対して海路は「波枕・浮枕」の称がある。約束ゆえ敢えてこの旅にも出たがと憂愁の色は濃い。四句の強勢による一音過剰も、調べに重みを添える。羇旅歌にも修辞には技巧を駆使して、独特の趣向を誇っている、と。
御手洗や影絶え果つるここちして志賀の波路に袖ぞ濡れこし 式子内親王
千載集、雑上。詞書に「賀茂の斎変り給うて後、唐崎の祓へ侍りけるまたの日、雙林寺り皇子の許より、昨日は何事かなど侍りける」と。
御手洗(みたらし)−山城国の歌枕、本来は普通名詞、身を清め参拝するための神前の川。京都市左京区の賀茂社前の御手洗川が歌枕化した。
邦雄曰く、式子が斎院を退下したのは嘉応元(1169)年七月下旬、十代の後半であったが、その頃のことは後々幾度も、懐かしんで歌っている。第二句「影絶え果つる」にさえも、作者の詩魂は暗い光を発する、と。
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