秋風のいたりいたらぬ袖はあらじ‥‥

0412190341

−表象の森− 長明忌

 ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず
 よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまるためしなし

いわずと知れた「方丈記」冒頭の一節だが、今日6月8日は長明忌にあたるとか。
とはいっても旧暦のことで、長明の没したのは建保4(1216)年閏6月8日、新暦でいえば7月も下旬頃にあたる。享年62歳といえば奇しくも現在の私の年齢だ。

下鴨神社禰宜鴨名継の二男として久寿2(1155)年に生まれた長明は、20歳過ぎ、高松女院歌合に和歌を献じてその才を認められたが、まもなく清盛の福原遷都があり新都へ赴くも、やがて壇之浦の平家滅亡で京への復都となり帰洛するというように、動乱の時勢に翻弄されている。そういえば「方丈記」には福原遷都の件りもあった。

正治2(1200)年46歳の折、後鳥羽院に召され院主催の歌合などに和歌を献じ、翌年には和歌所寄人に任ぜられているが、元久元(1204)年50歳の春、宮中を辞し出家、洛北大原に隠遁する。
方丈の庵に暮す身となった隠遁のつれづれに、随筆の「方丈記」や歌論書としての「無名抄」を著すのだが、その庵暮しは「ゆく河の流れは絶えずして」の如く、大原に留まることなくずいぶんと転々としたらしい。

現在、糺の森の一角、河合神社の庭に、長明が暮した方丈の庵が復元公開されている由だが、おもしろいのは組立て式というか移転が至極容易な構造となっていることである。そもそも神社というのは式年遷宮の習慣があるから、造り替え自在の構造を有した一面があるが、長明はこれにヒントを得てか、自らの方丈も簡便な組立て式のものとし、気の向くままに任せてあちこちと移り住んだということらしい。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

長明忌に因み春秋の歌二首

 吉野河浅瀬しらなみ岩越えて音せぬ水は桜なりけり

鴨長明集、春、花。
邦雄曰く、春も末、落花が渓谷の石間から、波に乗り流れに揺られて、峡へ瀞へ落ちてゆく様子を、調べそのもので描き出す妙趣。第一・二句は名詞のみを巧みに配し、軽やかに第三句に移る。水面を覆い盡す桜花、「音せぬ水は桜」は秀句に近いが、この隠喩いささか尋常に過ぎる。「無名抄」の厳しい批評精神は、この名手にしても他作についてのみか、と。


 秋風のいたりいたらぬ袖はあらじただわれからの露の夕暮

新古今集、秋上、秋の歌とて詠み侍りける。
邦雄曰く、誰の袖にも悲しみの秋風は届き、それゆえの涙ならば例外はあるまい。この夕べ涙が頬をつたうのは、決して秋風のみの所為ではない。自身の心より湧く悲しみゆえのもの。随分まわりくどい理のように聞こえるが、歌の調べは第四句「ただわれからの」に到って哀切を極め、修理を盡した歎きが読む者の身に沈む、と。


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