影見れば波の底なるひさかたの‥‥

N0408280381

−表象の森− 賈島の「推敲」

 中国唐代の詩人・賈島(カトウ)のことが下記の貫之詠の解説に登場しているので、この賈島に因んだ「推敲」の故事来歴について。
詩人というものすべからく言葉の用法には吟味熟考あって当然といえば当然のことだが、この賈島という詩人はとりわけ熟考呻吟の人であったらしい。

  鳥宿池中樹−鳥は池中の樹に宿り
  僧推月下門−僧は月下の門を推す

との対句を案出したものの、「推す」に対して「敲く−たたく」はどうであろうかと思い浮かんで、さあ考え込んでしまった。「敲く」のほうが、視覚的効果だけでなく聴覚的効果もあり良いのではないかと思いつつも、「推す」もまた捨て難いと考えあぐねつつ、馬の手綱引く手もおろそかに道を行くうち、不覚にも向こうからやってくる貴人の行列にぶつかってしまった。この貴人が当代きっての詩人韓愈だった訳だが、賈島から謝辞とともに件の事情を聞いた韓愈がしばし考えて「敲く」が良いでしょうと応じると、賈島も我が意を得たりとばかりに喜んだ、との故事より、詩文の字句をあれこれと何度も練り直すことを「推敲」というようになった訳だ。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<雑−19>
 われを世にありやと問はば信濃なる伊那と答へよ嶺の松風    宗良親王

李花集、雑。
邦雄曰く、李花集の大半は羇旅歌と思われるほどに、作者半生の波乱を物語る漂白の歌が夥しい。信州伊那に数年過し、都の便りも絶え果てた頃の作には「伊那=否、と答へよ」と自らに語りかけるかの悲調が籠る。歌枕を詠んだ作も、たとえその修辞は常套を出でずとも、生きてその地を歩んでいる作者の、重い呟きと切なる希求が伝わってくる、と。


 影見れば波の底なるひさかたの空漕ぎわたるわれぞ侘しき   紀貫之

土佐日記、承平五年一月十七日。
邦雄曰く、延長8(930)年、土佐守となって赴任した作者は、5年後に帰京する。帰途船中の記に現れる秀作。唐詩人賈島(カトウ)の「棹は穿つ波の底の月、船は壓ふ水の中の空を」からの着想であるが、70歳近い貫之の爛熟しきった技法が、幻想の空を走るように、瑞々しく駆使されている、と。


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