あづま路の木の下暗くなりゆかば‥‥

Uvs0504200691

−表象の森− 琵琶界の巨星墜つ

琵琶奏者として唯一人の人間国宝だった山崎旭萃さんが5日未明逝去。
各紙一斉に報じていたのだが不覚にも気づかず、昨日偶々、数日前に草稿なった説経小栗「くまのみち」を携え、節付をお願いするべく奥村旭翠さん宅を訪ねて知るところとなったのは、皮肉というか、妙なめぐり合せとなってしまった。
明治39(1906)年生れ。昨年は白寿を大勢のお弟子さんたちに祝され、なおも日々元気に指導にあたっていたという、満100歳の大往生である。


大阪市内の西区出身だという。まだ幼い8歳にして、活動写真の弁士の横で奏されていた琵琶に魅せられたというから、おそらく商家のお嬢さんだったのだろう。幼くも芸道の鬼神に魅入られ病膏肓に入るか、大正4年10歳で倉増旭陵に本格入門、同11年には早くも自らの「山崎旭萃会」を創立主宰するが、このとき弱冠16歳という早熟の天才ぶりだ。同14年、筑前琵琶橘会宗家初代橘旭宗の直門となり、その後長らく琵琶界の代表的な奏者として活躍するとともに、後進の指導育成に努めてきた。
昭和39(1964)年には、琵琶と詩吟を融合した「大和流琵吟楽山崎光掾会」を創始している。
同42年、初代旭宗の死後、筑前琵琶日本橘会の最高位である「宗範」となる。
琵琶奏者として初の国重要無形文化財保持者−人間国宝−に認定されたのは平成7年、すでに89歳に達していたが、以後10年余をなお琵琶界の象徴的存在として矍鑠と生きた。


彼女の弾き語りを生で聴く機会を得たのは五年前か、高槻現代劇場での山崎旭萃一門会だったが、なにしろ96歳の高齢のこと、プログラムの最期にこれもご愛敬とばかり、琵琶を小脇に抱えるようにして、とても女声とは思えぬほどの野太い低い声で一節弾き語っておられた、この一度きり。
私の手許には彼女の「茨木」の入ったCDがあるが、この弾き語りは力強く情感あふれる見事なものである。この演奏の録音が昭和40年代のものか50年代のものか或いはもっと以前に遡るのか判らないが、ここにはただ一道、芸の熟練が結晶した達人の世界がたしかにある。

彼女の略年譜をたどって、成程と気づかされたことは、昭和20(1945)年の終戦間近に、鹿児島へと疎開、その後14年間の長きを、農作業に従事しながらも琵琶を手放すことなく日々を送っていた、という疎開暮らしの時期が、明治の終り頃から大正を経て昭和初期に、広範に大衆芸能化していった民俗的伝統芸能の諸様式が、戦後の長い冬の時代に遭遇、各々ひたすら耐えてその燠火を絶やさず守ってきた時期と、ちょうどぴったり重なっているのではないかということだ。
日本の歌謡界に浪曲出身の三波春夫や村田英雄が「雪の渡り鳥」や「無法松の一生」を引っ提げて華々しいデビューを果たし、一躍大衆的人気を得たのが昭和33(1958)年だが、ある意味でこの出来事は時代の潮目であったろう。民俗的伝統芸能に携わる人々にとって三波や村田の活躍は、彼ら自身の復活の希望のサインと映っていたにちがいない。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<雑−20>
 あづま路の木の下暗くなりゆかば都の月を恋ひざらめやは  藤原公任

拾遺集、別れ、実方朝臣陸奥国へ下り侍りけるに、下鞍遣はすとて。
康保3(966)年−長久2(1041)年。三条太政大臣頼忠の長男。正二位大納言。学才和漢に長じ、管弦をよくし、有職故実に詳しかった。北山抄・和漢朗詠集拾遺集・和歌九品・三十六人選など多くの編著。拾遺集以下に89首。小倉百人一首の「滝の音は絶えて久しく‥‥」の詠者。
邦雄曰く、藤原実方は行成と口論、宮中で冠を打ち落し、その廉で奥州へ左遷され、作者はその餞別に馬の下鞍を贈る。第二句に「下鞍」が物名歌風に隠してある。道のみならず心まで暗くなりまさる陸奥への旅ゆえに、さぞ都も恋しかろうと、公任の友情が隅々にまで沁みわたっている。贈答の物名歌という制限の中で、心を盡した技倆を称えるべき一首、と。


 別れぬる蘆田の原の忘れ水ゆくかた知らぬわが心かな   源兼昌

宰相中将国信歌合、後朝。
生没年不詳、12世紀前葉に活躍。美濃介源俊輔の子。従五位下、皇后宮少進。内大臣忠通家歌合や国信家歌合などに出詠。金葉集以下に7首。小倉百人一首「淡路島かよふ千鳥の‥‥」の詠者。
蘆田の原−大和国の歌枕、明日の原とも表記している。奈良県王子町、香芝町界隈を指す。
邦雄曰く、歌合の判詞では「忘れ水ぞあやしう聞ゆれども」とあるが、そのあやしさがむしろ、恋歌の埒を越えて人生への歎きに転じる趣き。さして秀作を伝えられてはいない兼昌の、あるいは最良の作かと思われる、と。


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