忘れずよほのぼの人を三島江の‥‥

0505120101

−表象の森− 念は出離の障り

嘗て私が一遍の15年におよぶ遊行と踊り念仏を捉え、説経小栗の世界とを重ね合わせて舞台を創る、というその動機とヒントを与えてくれたのが、栗田勇「一遍上人−旅の思索者」(新潮社−昭和52年刊)であった。
その書の終章近く、一遍の語録を引いたこんな行(クダリ)がある。以下要約的に引用するので語法・語尾等に些かの改変があることを断わりおく。


―― 念は出離の障りなり
念仏とは、口に名号−南無阿弥陀仏−を唱えることであるが、「念仏」という以上、たとえ幾らかなりとも、念=想念の入る余地があるというもの。
一遍の説くところは、極論すれば、「念仏」の「念」を捨てれば「仏」が現前するというのだ。
またこの「念」は「心」でもあるという。
―― 名号に心を入るるとも、心に名号を入るべからず
―― 心は妄念なれば虚妄なり。頼むべからず
他力・易行の浄土門が、理智を排するのは分かるが、法然は、常に、称名しながら、念々相続して、弥陀を念じつづけることを勧めた。
親鸞は、むしろ、心の内なる信に救いの根拠を求めている。
一遍は、法然の立場を「念」と捉え、親鸞の立場を「心」と捉え、両者の矛盾をつき批判しているといえようか。
この矛盾を克服止揚するに、一遍は、融通念仏の思想にたどりつく。
口称念仏を、おのれ独りで行じているかぎり、その念仏は、おのれという個人性を離れることは難しい。いかに心を工夫しても、畢竟、念仏は、おのれの心により、おのれの口から発せられ、おのれの生死にのみ拘わらざるを得ない。
だが、何十人、何百人とともに、合唱する名号は、すでにおのれの口から出る名号ではない。
合唱する南無阿弥陀仏の声は、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏を唱えている、というわけだ。
この合唱形式こそ、浄土教の主観性から念仏を解放することを可能ならしめたのであり、
ひとつの共同体のなかへの参入、融合によって、逆に、そのなかで、おのれを再生する、こととなる。
合唱による、また、踊るという行為による、自己からの、「念」と「心」からの解放と脱却、
おのれを捨て、おのれを超え、時々刻々、生まれかわるおのれを体験する、
という共同体と行為によるこのあり方は、演劇的なカタルシスにも似て、名号における実存的存在感を現出することになるだろう。
このあたり、一遍時衆が、中世以降の芸能者の系譜に、色濃く浸透してゆく事情も読みとれようか。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋−29>
 忘れずよほのぼの人を三島江の黄昏なりし蘆のまよひに   藤原良経

六百番歌合、恋、見恋。
邦雄曰く、ほの三島江の、それも蘆の葉交い、時刻は黄昏、淡彩を施した墨絵さながらの優美な歌。殊に初句切れの、軽やかな今様調が、六百番歌合時代の一特徴。右は隆信の「花の色にうつる心は山桜霞の間より思ひそめてき」、俊成の判は良経の勝、と。


 なみだ川底は鏡に清ければ恋しき人の影も見えぬは   藤原興風

興風集、寛平の御時、花の色は霞に込めてといふ心を詠み奉れとあるに。
生没年不詳。正六位上、下総大掾古今集時代の有力歌人、琴の名手。三十六歌仙古今集に17首、後撰集以下に21首。小倉百人一首に「誰をかもしる人にせむ高砂の松もむかしの友ならなくに」
邦雄曰く、恋歌に必ず現れる涙川は歌枕とする説もあるが、そう取る必要はなかろう。流す涙が袖に川をなす誇張表現として定着している。涙の玉に恋しい人の面影の映るを歌った例は少なくないが、水底の鏡は異例に近い。とはいえもともと鏡は水鏡、心に願えば俤も顕つと信じられていたから、この恋は既に心の通わなくなったか、或いは片思い。ただ泣くのみの忍ぶ恋、と。


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