わがためは見るかひもなし忘れ草‥‥

N0408280711

−表象の森− 円空仏と生誕の地

生涯12万躰の造仏を発願し、5200余躰の現存が確認されているという円空仏の飄逸で素朴な味わいは、観る者の心を和ませ、惹きつけてやまない魅力に溢れている。木っ端(こっぱ)仏と呼ばれ、だれもがかえりみないような木の屑にも数多の仏の姿を刻んでいるが、どれもこれもその荒削りのままの木肌に無心の微笑みが宿っている。

江戸の初期、寛永9(1632)年の生れの円空は、元禄8(1695)年64歳で岐阜県長良川畔にて即身仏として入定を遂げたといわれるが、その遊行遍歴の生涯は、北海道から関西に至る各地に残るさまざまな円空仏や書画によって類推されている。円空の入寂の地は先述の長良川畔と確定され異論はないようだが、生誕の地について同じ岐阜県内にも異説があり、両説相譲らずご当地争いの種となっているようだ。
そもそも従来は、「近世畸人伝」の「僧円空美濃国竹ヶ鼻という所の人也」とあるを根拠とし、美濃の国、現・羽島市説がほぼ定説となっていたようだが、民俗学者五来重氏が、同じ美濃国ながら郡上郡の南部にある瓢(ふくべ)ケ岳山麓(現・美並町)で、木地師の子として生まれたのであろうとの説を採って以来、この異説のほうが優勢になりつつあるのが現状だろうか。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏−23>
 ひさかたの雨は降りしく石竹花がいや初花に恋しきわが背  大伴家持

万葉集、巻二十。石竹花(なでしこ)−撫子。
兵部少輔大伴宿禰家持の宅にうたげする歌四首の第二首。大原真人今城の石竹花の讃歌(ほめうた)に答へる歌。
邦雄曰く、その快速調の呼吸、鮮烈な映像、贈歌とは雲泥の差があり、眼を瞠らせる。この花、今日言う河原撫子で、唐渡りの石竹ではあるまい。尤も、用字は瞿麦とも書き、後世では常夏とも混同されて紛らわしい、と。


 わがためは見るかひもなし忘れ草わするばかりの恋にしあらねば   紀長谷雄

後撰集、恋三、いひかはしける女の、今は思ひ忘れねといひ侍りければ。
貞和12(845)年−延喜12(912)年、菅原道真の門下、権中納言従三位に至る。漢詩文を能くし、和歌は後撰集に4首入集。
邦雄曰く、悲しみを忘れる呪いに萱草を植えたり、この草を身につけたりするのは唐渡りの習い。忘れ草は野萱草に似てやや大きく、ゆかしい微香のある一種。苦しい恋を忘れるためのこの花も、私には所詮むなしい。忘れ得るような生やさしい恋ではないと歌う。漢詩文の天才長谷雄のめずらしい恋歌、と。


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