晴るる夜の星か川べの螢かも‥‥

Nakahara0509181421

−表象の森− 秋成と芙美子

昨日27日は秋成忌、「雨月物語」などの上田秋成
今日28日は芙美子忌、「放浪記」の林芙美子だ。


上田秋成は、享保19(1734)年−文化6(1809)年、大阪・堂島の人とされるが、事実は遊郭に私生児として生まれたという。奇特にも4歳にして紙油商・上田茂助の養子に迎えられ、なに不自由なく育ったらしいが、好事魔多し、5歳のとき疱瘡に罹り、一命を取り留めるものの両手指に後遺症が残った、と。
6歳で養母も亡くしているというから、富裕な商家に育ったとはいえ、ことほど肉親や家族には縁の薄い星の下にあった。
秋成の「雨月物語」については、松岡正剛の千夜千冊「雨月物語」に詳しく、タネとなった中国の白話世界や背景に「水滸伝」の面影をみるなど、各説話を読み解く手際も見事なもので、とてもおもしろく読めるが、その長文の書き出しを、「秋成には、キタの上方気質と、浮浪子−のらものの血が脈打っていた」と始めるあたり心憎いばかりである。
「浮浪子−のらもの」とは一言でいえば遊び人ということだが、さしずめインテリ・アウトサイダーとでもしたほうが近いような気がする。
若い頃は、俳諧にも狂ったが、懐徳堂に通って五井蘭州に儒学国学を学んでもいる。後には賀茂真淵門下の加藤宇万伎にも師事、同時代の本居宣長の著書に没頭するも、やがて宣長に激しく論争を挑むことにもなる。
「狂蕩の秋成」との謂いがある。「人皆縦に行けば、余独り横に行くこと蟹の如し。故に無腸という。」とこれは晩年の秋成の言葉だが、反逆精神に溢れた狂者の意識とでもいうか、浮浪子−秋成の生き様をよく評したものといえよう。


林芙美子は、明治36(1903)年−昭和26(1951)年、山口県下関の出身とされるが、流浪する行商の子として生まれた彼女の出生地は、鹿児島県の古里温泉または福岡県北九州市と両説あって判然としない。
「私は宿命的に放浪者である。私は古里を持たない。」と言った芙美子だが、出生地も判然とせず、幼い頃は行商の両親に牽かれ各地を転々としたことを思えば、かように心の奥深く刻印されるのも無理からぬものがある。
両親は彼女が12歳になってやっと広島県尾道に定住した。その年はじめて小学校へ編入された彼女はすぐにも文才を発揮するようになったという。恩師の強い薦めで尾道市立高等女学校に進学、卒業は大正11(1922)年だが、この女学校時代に、詩や短歌を地方新聞に盛んに投稿しており、また絵画にもすぐれた才を発揮した。
幼い頃の放浪の数々は彼女に積極果敢な行動派の気質をもたらしたか、この時期、文学青年との激しい恋にも落ちている。女学校を卒業すると東京の大学に通うその彼を追って上京したのだが、やがて破局を迎える。この恋の破局が、彼女の宿命的放浪の再スタートとなったのだろう。当初は詩人としてなにがしか注目された彼女だったが、昭和5(1930)年に至って発表された「放浪記」が記録的なベストセラーとなる。時代の寵児、女流作家林芙美子の誕生である。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏−29>
 晴るる夜の星か川べの螢かもわが住むかたに海人の焚く火か   在原業平

新古今集、雑中、題知らず。
邦雄曰く、伊勢物語第87段、昔、男が布引の滝を見に行く挿話にあらわれる歌。第二句「星か」で切れて句跨りを生みつつ三句切れとなるあたり、例外的な文体で、歯切れの良い調べをなし、光の点綴をパノラマの如く描き出す趣向と表裏一体。「わが住むかた」は芦屋の里。漁り火と承知しながら、星・螢を煌めかすあたりに才気が横溢する、と。


 風吹けば蓮の浮き葉に玉こえて涼しくなりぬ蜩(ヒグラシ)の声   源俊頼

金葉集、夏、水風晩涼といへることを詠める。
邦雄曰く、涼風にさざなみ立つ水は散り砕けて玉となり、蓮葉を飛び越える。その風はまた此方にも吹きおよび、折しも爽やかな蜩の声。納涼の歌としてまことに鮮明、作者の代表歌の一つとされる。潔い調べは当時の新風として耳をそばたたせたことだろう。浮き葉「を」ではなく、「に」であるところもまた微妙、と。

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