飛ぶ螢まことの恋にあらねども‥‥

C0510240641

−表象の森− 百万遍

今は昔のこと、京都は烏丸今出川同志社へ通い始めた頃、
左京区京都大学のそば、南北に走る東大路通りと東西の今出川通りが交差するところ、此処が百万遍と呼ばれるのに、どんな謂れがあることかしばらくは見当もつかなかったものだが、融通念仏における百万遍念仏に由来すると知って、その疑問符が氷解したのは、はていつの頃だったか。

抑も、百万遍念仏のはじまりは、中国の浄土教道綽に発するとされる。阿弥陀経などをもとに7日の間、百万回唱えれば往生決定すると唱え実修されたというから、この時点では自力行の色が濃い。
日本では平安時代も終り近くの永久5(1117)年、融通念仏宗(大念仏宗とも)の開祖良忍が、自他の念仏が融通して功徳あることを説いてより、他力易行の側面が強まって、百万遍念仏が下層社会にもひろまっていくことになる。
10人の者が、1080粒でなる大数珠を、車座となって繰り廻しながら念仏を100回唱えれば、合わせて百万遍の念仏となる訳だから、後代、民間にひろく流布していくのも肯けるというもの。
江戸時代ともなると、半僧半俗の聖であった円空や木喰が各地を放浪し、木仏を刻んでは堂舎に打捨てるが如く置いてゆくが、そこでは折々に村の民たちが集い、その粗末で素朴な木仏を拝みつつ、大数珠を繰り廻しながら百万遍の念仏を唱えたことだろう。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏−30>
 紫陽花の八重咲く如く彌(ヤ)つ代にをいませわが背子見つつ偲はむ    橘諸兄

万葉集、巻二十。
天武13(684)年−天平勝宝9(757)年、敏達天皇の裔、美努王の子、母は県犬養宿禰三千代、子に奈良麻呂藤原広嗣の乱以後の聖武帝期の左大臣万葉集に7首を残す。
邦雄曰く、右大弁丹比国人真人の宅に、諸兄が招かれての宴の席上の贈答歌で、「左大臣、あぢさひの花に寄せて詠める」とある。「わが背子」は主人真人。紫陽花は四弁花の一重だが、八重と強調したのだろう。幾代も幾代もの意の「彌つ代」の序詞的修飾としては相応しい、と。


 飛ぶ螢まことの恋にあらねども光ゆゆしき夕闇の空    馬内侍

馬内侍集。
邦雄曰く、高貴の男性から、一度だけ手紙を貰ったが、その後訪れもなく過ぎ、五月の末頃にこの歌を贈ったとの、長い詞書が家集には見える。「ゆゆしき」には、眼を瞠りつつ、秘かに戦慄している作者の姿が顕ってくる。第二・三句の恨みが、この螢の青白い光を生んだように見える、と。


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