ものおもへば沢の螢もわが身より‥‥

0511290102

−表象の森− 「度し難い」人

条理を尽してもわからせようがない、どうにも救いがたい人というのは、滅多にお目にかかることはないけれど、それでも世間には居るもので、恣意性百パーセント、自分のエゴばかりが前面に出る、そういう人と関わり合いにならざるを得ない場合、面と向き合うには此方にも大きな精神的負荷がかかるし、かなりの覚悟を要するものである。
この数日間、まことに久しぶりにそういう場面に遭遇してしまっていたのだが、それがある決め事を求められている会合であれば致し方なく、その「度し難い」人を相手にどこまでも対決姿勢を貫いて、とにかくその場を納めたのだが、自分の思うようにいかなかったその人は憤懣やるかたないだろうし、私を恨みにさえ思っているかもしれない。やはり虚しい徒労感が残る。


「度し難い」の「度」は漢語の「済度」からきているようである。「済度」+「し難い」の意。
「済」は「氵」+「斉」の形声。「斉」は神事に仕える婦人が髪に三本の簪を縦に通して髪飾りを整える形で、整え終る、の意味がある。「済」は水を渡って事が成るという意味から、成就(実現)する、成るの意味と、白川静はつたえる。
同じく、「度」は「席」の省略形と「又」とを組み合わせた形の会意。「又」は手の形で、「席」は手で敷物の席(むしろ)をひろげる形で、席の大きさを物差しとして長さや広さを測ることをいう。そこで「度」は、「はかる、ものさし」の意味となる。また席をひろげて端から端まで敷きわたすので、「わたす、わたる、こえる」の意味ともなる。さらには「ものさし」の意味から、法度(おきて・法律)、制度(きまり・おきて)のように「のり、おきて」の意味に用いる、という。


サンスクリット語の漢訳語としての「済度」は、迷いの境界を去って悟りにいたることであり、その「済度」が「し難い」とは、おのれの妄執や妄念をよしとし、そこへ身を投じてしまって、他者を顧みず、まったく条理につくところがないのだから、とにかく始末が悪いこと夥しいのだが、また、こういう人に限って世俗的な権力者まがいであったりするので、自信過剰だったり、奇妙なほどエネルギッシュでさえあるから、日頃から関わりのある周囲の者たちはさぞかし大迷惑なことだろう。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏−32>
 ものおもへば沢の螢もわが身よりあくがれ出づる魂かとぞ見る   和泉式部

拾遺集、雑六、神祇。
邦雄曰く、あまた愛の遍歴の後、藤原保昌と結ばれ、またその仲も疎くなる頃、貴船神社に詣でて「みたらし河に螢の飛び侍りけるを見て詠める」と詞書。魂が蛍火となって闇に燃えるのだ。貴船明神の返歌が並んで選入され、「奥山にたぎりて落つる滝つ瀬のたまちるばかりものな思ひそ」とある。男の声で式部には聞こえたと伝える。凄まじい霊感だ、と。


 蚊遣り火のさ夜ふけがたの下こがれ苦しやわが身人知れずのみ  曾禰好忠

好忠集、毎月集、夏、六月はじめ。
邦雄曰く、新古今・恋一にも入選しているが、家集の「毎月集」、1年360首詠中に、夏の歌として現われるのは格段の面白みがある。片思いの苦しさと蚊遣り火を「こがれ」で繋いだところは、別に新趣でもないが、連歌を思わすような上・下の呼応が快い。「懲りなしに夜はまみゆる夏虫の昼のありかやいづくなるらむ」も続きの中の一首だが、上句が滑稽、と。


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