篝火の影しうつればぬばたまの‥‥

Nakahara0509181381

−表象の森− 「竹の花」

60年とも120年とも諸説紛々、極端に長い開花周期とされる「竹の花」だが、講談社刊「日本の歴史09−頼朝の天下草創」を読んでいて、当時の大飢饉が、その竹の開花周期と因果関係を推測しうるのではないか、という興味ある説の記述があったので書き留めておきたい。

そのまえに、竹林の生態に関する調査を踏まえた知見によれば、
竹の類は発芽してから長い年月、地下茎によって繁殖を続けるが、ある一定の時期に達すると、花を咲かせ、種子を実らせて一生を終え、みな枯死する。竹類は花を咲かせるまでの期間が大変長く、その開花周期は種類によって、また地域風土によって大きく異なり、その周期の長さゆえにまだこれまでに開花が確認されていない種類があるなど、現代にいたってなお、まさに神秘的な状況にあるという。
また、これまでに確認されている、日本の竹の開花周期については、次のような記録があるそうだ。
  モウソウチク   67年   横浜市京都大学などで確認
  モウソウチク   67年   東京大学京都大学 〃
  マダケ      120年   昭和40年代に全国的に記録
これによれば昔から流布されてきた60年説も120年説も事実に基づく根拠あることになるわけだ。


さてそこで、前掲書の指摘する鎌倉期の飢饉についてだが、
「立川(りゅうせん)寺年代記」なる史書によれば、「寛喜3(1231)年夏、天下一同の飢饉」で、人々はふだん食べない馬牛の肉を食べたりしてしのいだが、天下の1/3は失われた、と記している。さらにこの記録で注目されるのは、「諸国大鼠多く出来し、五穀の実を喰らい失う」とある箇所である。鼠が大発生した原因についての記録はないが、あるいはこれは60年ないし120年に一回ともいわれる竹の花の開花・結実と関係するのではないだろうか。山野に栄養分の豊富な竹の実が稔ると、鼠が大繁殖し、竹の実だけでは足りずにやがては農作物を食い荒らすという現象は、すでに周知のことであり、同様の大量の鼠の出現は「民経記」にも記されている、というのである。
飢饉はさらに貞永元(1232)年に及び、5月に至っても京都では賀茂の河原に飢えに餓えた人々が溢れ、目を覆うばかりであった、とも記され、
鴨長明が「京ノウチ、‥‥路ノホトリナル頭(髑髏)、スベテ四万二千三百余ナンアリケル。‥‥モロモロノ辺地ナドヲ加エテ言ハバ、際限モアルベカラズ」と「方丈記」に書き記した養和(1181年)の飢饉に、勝るとも劣らない地獄絵図が現出したのである、と。
竹の花の開花−鼠の大量発生−凶作・飢饉の因果関係に、相応の科学的根拠が認められ、巷説、竹の花が咲くと異変、凶事が起こると昔より伝えられてきたことも、謂れのないことではなかったのだ。


これは余談だが、写真家でエッセイストの藤原新也は、竹の花になぞらえて、人間という種の寿命にも、滅びの前兆が訪れているのかもしれないと語った、その1ヶ月後に房総半島の山中で偶々竹の花に遭遇したというが、その奇妙な符節に彼自身少なからぬ戦慄をおぼえたことだろう。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏−33>
 思ひあれば袖に螢をつつみても言はばやものを問ふ人もなし  寂蓮

新古今集、恋一、摂政太政大臣家百首歌合に、夏の恋の心を。
邦雄曰く、忍ぶる恋の心を螢にかこつけて打ち明けようか、この歎きをさて問うてくれる人もないと、まことに婉曲に訴える。螢と胸の思ひの「火」、夏の虫が「身より余れる思ひ」を持つこと、すでに伊勢物語第39段、源至の燈火の螢でも至妙な効果を表して、13世紀では詩的常識に過ぎない。寂蓮の螢の恋、やや角張った一種の句跨り的な調子が面白い、と。


 篝火の影しうつればぬばたまの夜河の底は水も燃えけり  紀貫之

玉葉集、夏、延喜6年、内の御屏風十二帖の歌、鵜河。
邦雄曰く、10世紀初頭、古今集成立前後の作品で、月次(ツキナミ)屏風歌の6月。絵をはるかに超えた贅で、現代の写真家でも、「水も燃えけり」の迫真生を表現するのは容易ではあるまい。眼前に見える対象そのものでなく、これが水に映った相を詠ずるのは、貫之の独壇場で、「水底に影うつればもみぢ葉の色も深くやなりまさるらむ」など、十首近くを家集に見る、と。


⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。