みだれゆく螢のかげや‥‥

Takenohana2

−表象の森− 再び「竹の花」

 国内紛争の絶えないネパールのポカラで、学校に行けない最下層の子どもらのために、自ら小学校を作り、現地で徒手空拳の奮闘をつづけている車椅子の詩人こと岸本康弘は、20年来の友人でもあるが、その彼には「竹の花」と題された自選詩集がある。
その詩集の冒頭に置かれた「竹の花」の一節、


  少年のころ ぼくは粗末な田舎家で竹やぶを見やりながら悶々としていた
  強風にも雪の重さにも負けない竹
  六十年に一度 花を咲かす竹。
  半世紀以上も生きてきた今
  ぼくも一つの花を咲かそうとしている


  阪神大震災の時 落花する本に埋まりながらストーブの火を必死で止めて助かった命
  壊れた家をそのままにして
  数日後 機上の人になり
  雄大なヒマラヤを深呼吸していた
  太古に大地を躍らせて生まれたヒマラヤ
  あの大地震もこの高山も天の啓示のように思えてきた
  それが語学校作りの計画へ発展していったのである。


  ――略――


  初めは十三人で 十日目には六十人になっていた。
  薄いビニールの買い物袋にぼくが上げたノートと鉛筆を入れて
  幼子が雨の竹やぶを裸足で走ってくる
  ぼくは 二階から眺めて泣いていた
  こんな甘い涙は生まれて初めてのように思われる


  帰国する前日
  子どもたち一人々々が花輪を作りぼくの首にかけてくれる
  おしゃか様になったね!と職員らがほほ笑む。
  夜
  ヒマラヤを拝んだ
  竹は眠っているようだった
  螢が一匹
  しびれが酷くなっていく手に止まった
  その光で
  ぼくの花が開く音がした


 彼がこの詩を書いてより、すでに8年の歳月が流れた。
この8月で69歳を迎えるという彼は、生後1年の頃からずっと手足の不自由な身であれば、
おそらくは、健常者の80歳、90歳にも相当する身体の衰えと老いを日々感じているはずだが、
命の炎が尽きないかぎり、ポカラの子どもらとともに歩みつづけるにちがいない。
60年に一度きり、あるいは120年に一度きり、一斉に花を咲かせ、種子を実らせて一生を終え、みな枯死する、という竹の花の不可思議な運命。
それはこのうえなく鮮やかで見事な生涯でもあり、残酷に過ぎるような自然の摂理でもあるような感があるが、竹の花に擬せられたかのような岸本康弘の生きざまにも、また同じような感慨を抱かされるのだ。


   ※ 参考HP:「きしもと学舎の会だより


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏−34>
 みだれゆく螢のかげや滝波の水暗き夜の玉をなすらむ   冷泉為相

藤谷和歌集、夏、永仁2年内裏歌合に。
邦雄曰く、定家の孫、母は阿仏尼。仏国・夢窓国師とも交わりあり、冷泉家の祖となる作者ゆえ、この一首にも深沈たる重みあり、しかも暗い華やぎは類を絶する。ゆらりと闇に懸かるかの二句切れ、三、四句への息を呑むような律調も心に残る。「岩越ゆる沖つの波に影浮きて荒磯伝ひ行く螢かな」も珍しく、殊に第三句あたりに独特の工夫がある、と。


 後の世をこの世に見るぞあはれなるおのが炎串(ホグシ)の待つにつけても   藤原良経

秋篠月清、百首愚草、二夜百首、照射(トモシ)五首。
邦雄曰く、良経の眼は常に、対象を透き通していま一つの世界を視ている。真夏の山中に鹿を射るための松明の火口に、点火されるのを待っている時も、作者のは後世、死後の光景がありありと見えてくるのだ。獄卒に逐われて、焦熱地獄に奔る自らの姿を、夏山の鹿に予感する、とまでは言わぬところが、さらに「あはれ」を深くしている、と。


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