紅の千入のまふり山の端に‥‥

N0408280361

−表象の森− 下下の下国

  下下も下下下下の下国の涼しさよ  一茶

 ゲゲモゲゲ、ゲゲノゲコクノ、スズシサヨ と読む。
文化10(1813)年、一茶51歳の句作とされる。

これより遡って、まだ江戸にいた頃、文化3(1806)年の「俳諧寺記」に、病身をかこつ忌々しさも手伝ってか、一茶らしい、赤裸に思いをぶちまけている一文がある。
「沓芳しき楚地の雪といひ、木ごとに花ぞ咲きにけるなどゝ、奔走めさるるは、銭金程きたなきものあらじと手にさへ触れざる雲の上人のことにして、雲の下の又其の下の、下下の下国の信濃もしなの、奥信濃の片隅、黒姫山の麓なるおのれ住める里は、木の葉はらはらと峰のあらしの音ばかりして淋しく、人目も草も枯れ果てて、霜降月の始より白いものがちらちらすれば、悪いものが降る、寒いものが降ると、口々にののしりて、

  初雪をいまいましいとゆふべかな

三、四尺も積りぬれば、牛馬のゆききはたりと止まりて、雪車のはや緒の手早く年もくれは鳥、あやしき菰にて家の四方をくるみ廻せば、忽ち常闇の世界とはなれりけり。昼も灯にて糸繰り縄なひ、老いたるは日夜榾火にかぢりつくからに、手足はけぶり黒み、髭は尖り、目は光りて、さながら阿修羅の躰相にひとしく、餓貌したる物貰ひ、蚤とり眼の掛乞のたぐひ、草鞋ながら囲炉裏に踏込み、金は歯にあてて真偽をさとり、葱は籠に植わりて青葉を吹く。すべて暖国のてぶりとはことかはりて、さらに化物小屋のありさまなりけり。」

  羽生えて銭がとぶなり年の暮


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<雑−21>
 雄神川紅にほふをとめらし葦附採ると瀬に立たすらし  大伴家持

万葉集、巻十七、砺波郡の雄神川の辺にして作る歌一首。
雄神川−現在の庄川とされる。葦附(アシツキ)−薄緑色した淡水の海苔で、現在は天然記念物。富山県高岡市庄川に添って葦附の地名を残す。
邦雄曰く、雄神川はその源飛騨の白川、雄神村を通って日本海に入る。紅の裳裾を水に映して、川海苔を採っている少女ら、初句、二句、三句でぶつぶつと切れる珍しい文体が、この鮮麗な風景を活かした。なによりも「雄神川」と「をとめ」の照応がすでに目の覚めるような美を生み、しかも「紅にほふ・をとめらし」と極度に省くこの手法、まことに印象的、と。


 紅の千入のまふり山の端に日の入るときの空にぞありける  源実朝

金塊和歌集、雑、山の端に日の入るを見て詠み侍りける。
千入(ちしほ)−何度も染めること。
邦雄曰く、落日の紅さを、茜草の赤の染料に千度漬けて出した濃さに譬えた。絶句したような二句切れはその赤さをいよいよ鮮明にする。自らに言い聞かせるかの「空にぞありける」の思いの深さは、二句切れの間と見事に響き合い、単なる夕映えの眺めを、一種運命的な一幅の絵に生まれ変わらせた。作者の負った詩歌の栄光であり、同時に業であろう、と。


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