わが屋戸のいささ群竹吹く風の‥‥

Uvs0504200431

−表象の森− 文月会展」再び、と「観潮楼歌会」

昨日は、いつもの稽古を終えてから、京都へと「文月会展」の再度の訪問。
先日は旧知の市岡OBたちとの飲み会が目当てのようなもので、独りで出かけたため、あらためて連れ合いと幼な児とを伴って、という次第。
展示会の終了間際の時間帯はごった返すほどに人が次から次へと詰めかけていた。なかに先輩のT.Kさんが居たのでしばし歓談。先日「きづがわ」の芝居を観たという。劇団代表の時夫が私の兄弟だろうとは思っていたが、双生児の片割れとはご存じなかったらしい。神澤に纏わる市岡関係者の相関図とでもいうべき話題に昔を思い出しつつ興じたが、絡み合った糸を手繰ればいろいろと出てくるものである。
その後はN夫婦とそれぞれ個別にお話。N氏の持病は「間質性肺炎」だと聞いた。私には耳慣れない病名だったので、帰ってから調べてみたが、これが「特発性間質性肺炎」ともなると難病−特定疾患となるらしい。肺胞壁の炎症硬化が漸進的に進むものらしいから、呼吸器系に負担のかからぬ、なにより養生の生活リズムが肝要なのだろう。ご本人の自重こそ大切だが、周囲の我々もまたよくよく配慮せねばなるまい。


話題転じて、昨日は「鴎外忌」でもあった。
  「處女はげにきよらなるものまだ售(ウ)れぬ荒物店の箒のごとく」
森鴎外の「我百首」に含まれる歌という。明治42(1909)年5月の「昴」五号に発表されたそうな。
奇異な、アフォリズム風とでもいうのか、肩透かしの思わず笑いを誘うような歌ではある。森林太郎、時に47歳。
この年1月に「昴」が創刊された。4月には与謝野晶子の好敵手、山川登美子が30歳の若さで没している。
これより2年前、明治40(1907)年の3月から、与謝野鉄幹の「新詩社」と正岡子規の「根岸」派歌壇の対立を見かねた鴎外は、「観潮楼」と名づけた自宅に招いて毎月のように歌会を催し、両派の融和を図ったという。
明治の文壇・歌壇において一つのメルクマールをなしたこの「観潮楼歌会」は43(1910)年6月まで続けられ、当初は両派の領袖、与謝野鉄幹伊藤左千夫など少数であったが、次第に「新詩社」系の北原白秋吉井勇石川啄木・木下杢太郎、「根岸」派 の斎藤茂吉・古泉千樫らの新進歌人らが加わり、主人鴎外を中心に熱心な歌論議が交わされたと伝えられる。
鴎外の夢みた両陣営の融合は果たし得なかったが、そこに溢れた西欧文化の象徴的抒情性は白秋・茂吉・杢太郎ら若い人々に多くの刺激を与え、彼らの交流を深める動機となったといえるのだろう。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<雑−23>
 わが屋戸のいささ群竹吹く風の音のかそけきこの夕べかも  大伴家持

万葉集、巻十九、雑二、三十首の歌召されし時、暁雲を。
邦雄曰く、天平勝宝5(753)年2月23日、同じ詞書の「春の野に霞たなびきうら悲し‥‥」の次にこの歌は並ぶ。25日の「雲雀」とともに、家持抒情歌の傑作と誉れ高い歌。この群竹には春の気配は全くない。たとえ感じられても所謂竹の秋、陰暦3月の趣に近かろう。3首の中ではもっとも陰翳の冷やかな侘びの味わいに溢れている、と。


 ほのぼのと山の端の明け走り出でて木の下影を見ても行くかな  源順

源順馬名合せ、一番。
邦雄曰く、馬名合せは自歌合せ。一番は「山葉緋」と木下鹿毛」の番(ツガイ)。曙光が山の端に現れ、樹々が次第に暗みから明るみに出る様を、馬に類えて活写している。言語遊戯の達人順ならではの趣向。二番は「海河原毛」とひさかたの月毛」の番。「雲間より分けや出づらむ久方の月毛窓よりかちて見ゆるは」等、20首10番は、目も彩な馬名が珍しく楽しい。


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