忘られてしばしまどろむほどもがな‥‥

Enku_21

−表象の森− 円空の自刻像

  作りおくこの福(さいわい)の神なれや深山の奥の草木までもや

円空の詠んだ歌とされる。和讃などにも似て、歌の技巧など特筆するものはないが、信仰の心の深さや、木仏を刻みつづける思いの深さが沁みわたる。
円空の遺した歌は発見されたものだけでも1600首もあるそうである。ずいぶんの数だが、その殆どは古今集の歌を出典とする円空流替え歌だといわれる。6月20日付で書いたように、12万体造仏の発願から、鉈彫りで大胆な省略と簡素化をなした独創的な円空仏の世界に比して、歌は本芸にあらず余技というべきか。やはり円空はその木仏を愛でるに如くはないのだろう。

画像は岐阜県萩原町(現・下呂市)の藤ヶ森観音堂に遺る「善財童子像」である。朝日新聞社出版の「円空−慈悲と魂の芸術展」写真集より心ならずも拝借した。
円空が遺したさまざまな「善財童子」像の多くは自刻像であろうとされている。所謂、木彫による自画像という訳だ。その円空の自刻像について五来重はその著「円空と木喰」において次のように解説してくれる。
「自画像や自刻像をつくる芸術家は少なくない。しかし山伏修験、あるいは遊行聖の自刻像は、芸術家のそれとまったく異質な動機から出ている。それは自己顕示のためではなく、衆生救済の誓願のために作るのである。禅宗では一休のように自画像を描くこともあるが、多くは授法のために、自分の肖像画を頂相(ちんぞう)として、画家または画僧に描かせる。これも仏相単伝の禅を人格として表現するのである。山伏修験は自己を大日如来と同体化して、即身成仏を表現する。また自らの誓願を具象化するために、自刻像を残すのである。この自刻像を自分の肉体そのもので作ったのが、羽黒山に多い「即身仏」、すなわちミイラである。それは自己を拝する者には諸願をかなえ、諸病を癒そう、との誓願を具象化したものである。円空はミイラを残さずに自刻像を残したのであり、「入定」によって誓願を果たそうとした。円空の自刻像は「入定」とまったくひとつづきの信仰であった。飛騨の千光寺の円空自刻像が、「おびんづるさん」として、撫でた部位の病を癒すと信じられたのも、このような信仰から理解されるのである。」

 円空仏をいろいろと鑑賞していると、私などは棟方志功の版画世界によく通じるものを、つい観て取ってしまうのだが、信仰−宗教心から発したものと、西洋近代の自我を通した表現−芸術的創造から発したものと、その似て非なることの一点は、やはり押さえておかなくてはならないのだということを、五来重はよく示唆してくれている。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<雑−26>
 忘られてしばしまどろむほどもがないつかは君を夢ならで見む    中務

拾遺集、哀傷、娘におくれ侍りて。
邦雄曰く、亡き娘を思うあまり夜々泣き明かして眠る暇さえない。ほんの一時のまどろみがほしい。夢以外に見ることはもう不可能なのだから。悲嘆に苛まれる母の心を、ほとんど悩ましいほどに歌っている。中務は、また孫にさえ先立たれ、「うきながら消えせぬものは身なりけりうらやましきは水の泡かな」を、この集に並べて採られた、と。


 恋しくは夢にも人を見るべきを窓打つ雨に目をさましつつ   藤原高遠

拾遺集、雑三、文集の蕭々タル暗キ雨ノ窓ヲ打ツ声といふ心を詠める。
邦雄曰く、白氏文集の上陽人歌の中にある一句を踏まえての句題和歌。恋の歌というにはあまりにも淡々たるところ、高遠の性格が躍如としている。家集には「耿々タル残ンノ燈、壁に背ケタル影」を歌った、「ともしびの火影に通ふ身を見ればあるかなきかの世にこそありけれ」等、長恨歌・楽府等から句を選んでものした作品が、40首近く飾られ一入の趣、と。


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