北山にたなびく雲の‥‥

0505120181

−表象の森− 河野水軍の末裔、僧家と教職家系

私の小学校時代の恩師について二度ばかり触れたことがある。
一度は昨年の暮近く居宅訪問した際のこと、続いてはこの3月、彼の趣味の版画の会・コラゲ展についてと。
恩師の姓は河野、決して少なくない姓だが、念の為問うたことがある。ひょっとして先祖は河野水軍に連なるのではないですか、と。源平の屋島や壇之浦の合戦で勝敗の帰趨を制するほどの活躍をしたとされる村上水軍や河野水軍のことだ。
「家に系図なんて残ってないけれど、堺で父親の代まで18代続いた僧家で、昔、寺を焼かれて以後再建されることなく、代々寺を持たない僧侶の家系だったのは確か。」との答が返ってきた。
寺を焼かれたというのには歴史的背景があって、豊臣家滅亡となる大阪夏の陣のさなか、前の冬の陣以後、徳川方に占拠されるようになった堺の豪商たちは東軍の御用商人となっていたのだが、これを恨み、報復の意もあって、大阪方の大野治胤は、ほとんど無防備だった堺の焼討ちを断行するという事件があった。どうやら、河野家先祖の寺は、この折りに焼失の憂き目をみたらしい。時に慶長20(1615)年4月28日のことで、大阪城の落城はその十日後の5月8日であった。
寺は焼失したとて、檀家は残る。それが昔の寺請檀家制度である。
子どもの頃、堺は宿院の寺町界隈に住まいし、少林寺小学校に通ったという恩師の家は、代々続く檀家筋を頼りに、同じ宗門の寺に寄宿しながら、細々とはいえ僧家として糊口を凌いできたのではなかったか。
明治になって、祖父は僧をしながらだが、小学校の教壇に立ったという。父親もまた僧籍を有しながら、大阪市の小学校教員に奉職していた。昭和5年生れの恩師は天王寺師範学校(現・大阪教育大)を経て、やはり大阪市の小学校教員になったが、彼の場合はすでに僧籍はなく、教職一筋をまっとうする。
こうしてみると、明治の学制以来の、教職家系における一典型ともいえそうであるが、おまけに恩師の夫人は嘗て幼稚園教諭であり、夫婦の間には男子と女子の二子がいるが、男子は大阪府の高校教員だそうである。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<雑−27>
 北山にたなびく雲の青雲の星離(サカ)り行き月を離りて    持統天皇

万葉集、巻二、挽歌、天皇崩(カミアガリ)ましし時。
邦雄曰く、天武天皇崩御の時、後の持統天皇−鵜野皇后は長歌、短歌の幾つかをものした。万葉に伝わるもののうち、「星離り行き」は最も鮮麗で、それゆえに深い悲しみが伝わる。完璧無比の、恐るべき好伴侶であったこの人の、心の底の映っているような深い翳りをもつ挽歌だ。青雲が星を離れ月を離れるようにとは、自らを「太陰」とする心。凄まじい執念ではないか、と。


 蓬生にいつか置くべき露の身はけふの夕暮あすの曙    慈円

新古今集、哀傷、無常の心を。
邦雄曰く、文治3(1187)年、作者32歳の厭離百首の「雑五十首」中の一首。要約するなら、いつ死ぬかはわからぬというにすぎないが、慈円の線の太い華やかな詠風は、墓場を指す「蓬生」に緑を刷き、曙の露には紅を含ませている。同五十首中の「雲雀あがる春の山田に拾ひおく罪の報いを思ふ悲しさ」も、無類の面白みを見せた述懐の歌である、と。


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