暗きより暗き道にぞ入りぬべき‥‥

Oshigami_

−表象の森− 押し紙」と新聞配達員の苛酷な雇用実態

今日は十干十二支ひとめぐりして赤子となって2度目の私の誕生日だというのに、なんの因果か、暗いというか重い話題について書くこととなっってしまった。お読みいただく諸賢にはいつもお付合いいただいてただ感謝あるのみ。
2003年10月に刊行されたという同時代社刊の森下琉著「押し紙―新聞配達がつきとめた業界の闇」を読んだ。これを読んでみようと思うに至った経緯について書けばまた長くもなるので、とりあえず此処では省かせていただく。
本書は、静岡県のある大手新聞販売会社(この会社は専売店ではなく全国に珍しい多紙を扱う合売店)とそこで働く配達員たちとの間で、苛酷な労働条件や巧妙な搾取形態をめぐって争われた訴訟とその闘争記録である。


全国には約22,000店の新聞販売店と、その下で働く新聞配達員が専従社員・アルバイトを含めほぼ470,000人を数えるというが、この世界に稀なる戸別配達制度を明治以来支えてきた、各新聞発行社−販売店−配達員の三者間には、旧態依然たる弱者泣かせの構図が今なお本質的に改善されることなく存在し続けているのが実態であるようだ。
まず、販売店は新聞社に生殺与奪を一方的に握られている。慢性的な過当競争に明け暮れている新聞社は過大なノルマを販売店に課すのが常態化しており、強制的なノルマは大量の売れ残り−「押し紙」−を発生させるが、これが販売店の経営を圧迫し、販売店はつねに経営的に「生かさず殺さず」の状況に追い込まれている。
再販制度と特殊指定に守られている新聞の公称発行部数と実売部数には、各紙共に2〜3割程度の開きがあることはなかば常識となっているが、この数字の殆どが新聞社から各販売店に半ば強制的に押しつけられたもので、販売店は購読契約数以外のまったく売れる見込みのないものを恒常的に買い取らされているわけで、これが「押し紙」というものの実態である。
一説によれば、公称1000万部という読売新聞では全体ベースで2割、朝日新聞では約3割、毎日新聞にいたっては4割近くもの「押し紙」があるという凄まじさだ。全国の日刊紙で総発行部数の約2割、約1000万部の新聞が右から左へと毎日古紙として処分されており、その新聞代金は買い取りとして販売店にのしかかっているのだから恐るべき搾取構造だ。


新聞社と販売店におけるこの弱者泣かせの搾取の構図は、そのまま販売店と配達員の間に苛酷な雇用形態となって反映せざるを得ない。
売店に卸される新聞の買取り価格は概ね月極新聞代金のほぼ半額とされるが、なにしろ「押し紙」相当分も余分に新聞社に支払わなければならないのだから、これを経営努力で吸収しなければならない販売店は、主たる配達業務自体がすべからく人手に頼るしかない性質上、その配達員たちにしわ寄せがいかざるを得ないことになる。雇用実態は販売店によってさまざまではあろうが、早朝勤務というよりは深夜勤務というべきが実情にもかかわらず、その賃金は労基法に照らして最低水準かもしくはそれを下回る場合も十分にありうる。専従の社員ともなれば集金業務も兼ねることになるが、期日内集金が叶わず未集金ある場合は集金の担当者が立て替えなければならないというのが当然の如く押しつけられているようだ。うっかりと誤配をすれば罰金500円が科され給料から天引きされるという。500円という罰金は、少なくとも1ヶ月間の1戸あたりの配達料より大きい金額なのだ。要するに一度誤配をすれば、まるまる1ヶ月間その家への配達はただ働きの勘定となるばかりか、さらにマイナスを背負い込むということになるのである。
と、まあ数え上げればきりがないが、この世界には戸別配達制度が全国網を形成してきた明治以来の古い因習的体質が遺されたまま今日に至っているというのが、配達員たちの雇用形態の実情といえそうなのだ。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<雑−28>
 木の間洩る片割月のほのかにもたれかわが身を思ひ出づべき  行尊

金葉集、雑上、山家にて有明の月を見て詠める。
邦雄曰く、弓張月といえばなにか雄々しく、明るく感じられるが、「片割月」は冷たく暗く、衰微する趣あり。序詞に含まれた負の幻影は、下句の悲しみをさらに唆る。誰一人、自分を思い出してくれる人などいようかと、みずからに問うて打ち消す。「大峰の笙の窟にて詠める」と詞書した、「草の庵をなに露けしと思ひけむ盛らぬ窟も袖は濡れけり」も見える、と。


 暗きより暗き道にぞ入りぬべきはるかに照らせ山の端の月   和泉式部

拾遺集、哀傷、性空上人の許に、詠みて遣しける。
邦雄曰く、法華経化城喩品に「冥キ従リ冥キニ入リテ、永ク仏名ヲ聞カズ」とあり、これを上句に置いて上人へ願いを托したのだろう。調べの重く太くしかも痛切な響きを、心の底まで伝えねばやまぬ趣。長明はその著「無名抄」で、式部第一の名歌と褒めている。「第一」は見方によっては幾つもあるが、確かに女流には珍しい暗い情熱で、一首を貫いているのは壮観である、と。


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