底澄みて波こまかなるさざれ水‥‥

Ippenmokuzou

−表象の森− 承前・河野水軍の末裔、僧家と教職家系

源平の戦いで名を馳せた河野水軍の河野氏伊予国の豪族で、もとは越智氏と称し、伊予国越智郡を本拠とし、国郡制が定められてからは越智郡司として勢力を振るっていたとされる。
水軍を擁し源義経を助けて平家を壇の浦に全滅させた功績を認められて鎌倉幕府に有力な地位を築いたのは河野通信だったが、源家が三代で潰え、幕府が執権北条氏による支配となってからは、通信一族の殆どは後鳥羽上皇が新たに設置した西面の武士として参ずる。承久3(1221)年の後鳥羽上皇による承久の乱において朝廷方に味方したため、これに敗れた通信らは奥州平泉へと配流となっている。この事件によって河野氏係累は没落の憂き目をみるのだが、唯一、通信の五男(?)通久のみ鎌倉にあって乱に荷担せず、その命脈を保った。所謂、元寇の第2次蒙古来襲(弘安の役−1281年)において、この通久の孫にあたる通有が戦功を立て、再び河野氏の勢いを盛り返した。以後、南北朝・室町・戦国の世を生き抜くが、天正13(1585)年、豊臣秀吉四国征伐に反抗した河野通直は所領を没収され、その二年後に没して河野氏の正系は断絶する。


ところで、念仏踊をもって全国を遊行した時宗の開祖・一遍は、河野氏の出身であることはつとに知られていることだが、その一遍は河野通信の孫にあたり、父は通広といい通信の四男であるが、承久の乱の時はすでに出家(法名・如仏)していたか、或いは何らかの理由で乱に加わらなかったのであろう。乱後、一旦は捕えられるも、後に赦免されて無事だった。その通広の二男として生れた一遍は名を智真という。四国松山の道後温泉近くに宝厳寺という寺があるが、この寺は代々河野氏菩提寺であり、通広(如仏)はこの別院に住していたというから、智真(一遍)の生地はその別院であろう。以前に訪ねたことがある宝厳寺では一遍の木像を拝したが、高さ113㎝ほどの、右足をやや前にして立ったその姿は、裾の短い法衣から素足のままに大地を踏みしめ歩くが如く、胸元で合掌した両手は慎ましやかながらも少しく前方へと差し出されるようにあり、印象深いものであったが、なにより強烈なのはその顔形骨相で、頬こけ痩せた顔つきながら、卑近な例を持ち出すならジャイアント馬場にも似て、異様な程に長く大きなもので、太い眉と伏し目がちなれど眼光は鋭く、鼻腔あくまで高く真一文字の口と相俟って、粛然と静かな佇まいにあって、観れば観るほどに此方を圧倒してくる強さがあった。なにしろ15年にわたって全国を遊行放浪した身であるのだから、余程頑健な体躯に恵まれていたのだろう。武士にあってはその恵まれた体躯も体力もまた出家の白き道をひたすら歩まんとする身には、人より何倍も煩悩多く業の深みとなって我が身を襲ったにちがいない、と思われるのだ。
一遍が従う時衆たちとともに遊行放浪した北限は、現在の岩手県北上市稲瀬町水越だが、この地には今も「聖塚」の名で残る小さな墳墓がある。祖父・河野通信の墓だ。一遍の死後、弟の聖戒が製作した「一遍聖絵」には、一遍とその一行20名余が一様に墳墓の周りにぬかずいている墓参の光景が描かれているが、この故事にちなんで後々に至るまで残ったのが「薄念仏」とされている。薄の穂の出揃う名月の頃、庭に薄を飾り、それを廻って円陣に念仏を唱えながら踊るという宗儀が、長く時衆では残されてきたと。


おそらくは、河野氏の直系から一遍が登場したことは、以後その係累にとって陰に陽にさまざまに影響を与えてきたことだろうと推量される。時宗へと結縁する場合もあれば、他宗であれ出家して僧家へと転身する場合などさまざまあったのではなかろうか。
恩師・河野さんの親の代で僧家18代といえば、室町の終りか戦国の世に始まるのであろうか。代々の宗派が何であったかは、迂闊にも聞き漏らしたが、必ずしも時宗にかぎるまいし、一遍の時世からはすでに200年は経ていようから、宗派の別はさほど拘るところではあるまい。それよりも、室町の頃の時宗はすでに芸能民との結びつきがとくに色濃く、半僧半俗の聖や比丘たちの遊行民たちに支えられていくという一面が強くあることを考えれば、一遍の時宗はむしろ敬して遠ざけられる運命にあったかもしれない。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<雑−29>
 底澄みて波こまかなるさざれ水わたりやられぬ山川のかげ   西行

聞書集、夏の歌に。
邦雄曰く、水面に山河の投影を見てふと徒渉る足を止めた風情、「波こまかなる」とあるからには、その影も千々に崩れていたことだろう。旅の一齣が生き生きと描かれ、しかも心は風流に通う。「冴えも冴え凍るもことに寒からむ氷室の山の冬の景色は」は、夏にあって、厳しい冬の光景を思いやる作。四季を越えて、西行の人となりを映す歌の一例か、と。


 あつめこし螢も雪も年経れど身をば照らさぬ光なりけり   源具定

新勅撰集、巻二、述懐の歌の中に詠み侍りける。
生没年不詳、鎌倉初期の人。父は堀川大納言と称された源通具、母は藤原俊成女だが、若くして没した。
邦雄曰く、蛍雪の功もついに見られず、徒に努めたのみ、世に出ることは空しい夢となった。暗い諦めの歌の作者は、新古今きっての閨秀歌人俊成女と、別れた夫源通具の間に生れ、立身も果たさぬままに母をおいて世を去った。入選も二首のみ、いま一首は「春の月霞める空の梅が香に契りもおかぬ人ぞ待たるる」で雑一。母の歌の面影を伝える、と。


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