はかなしや荒れたる宿のうたた寝に‥‥

0507210125

−表象の森− いごっそうの美学

「志」を白川静の常用字解で解説するところを引けば、
形声。音符は「士」、字の上部の「士」はもと「之」の形である。「之」は行くの意味であるから、心がある方向をめざして行くことを「志」といい、「こころざす(心がある方向に向かう。心に思い立つ)、こころざし」の意味となる。


昨年の暮れ近くだったが、40余年ぶりに再会した高校時代の友K.T君と、昨日は余人を交えず二人きりで逢った。同窓会がらみの野暮用もあった所為だが、暮れの再会の機会が多くの友人たちの輪の中でのことだったから、お互いの40年、積もる話がこの日に持ち越されたような体で、ほぼ4時間ちかくも対座した。

親に勘当同然で仕送りもない境遇にあったとはいえ、学科生10名に教授連4名という、よき時代の信州大学に学んだというK.T君は、高校時代にはまだ、内部でとぐろをまく熱情の火照りが、出口を求めて彷徨っていたか、お互い明瞭な像を結ぶべくもなかったのだが、どうやら信州松本における、少数精鋭の濃密な人間関係に支えられた4年の学生生活が、これを克服してあまりあったのだろうと受け止められた。
鉄鋼メーカー大手の系列、K商事に就職してからの、現在に至るほぼ40年の企業戦士としての道程は、固有性に満ちた、かなり波乱に富んだものであったということが、彼自身の語るかいつまんだ40年史で、此方には充分すぎるほどに伝わってきた。無論、語り出せばだれにでもある、ありうる固有の物語だが、俗に肝胆照らすというか、互いに聴きたい・聴いて貰いたいという間柄、打てば響く相手でなければ、熱く語る動機も起こり得まい。
商社マンとして営業畑の表街道から、どういう巡り合わせにせよ、いつのまにか社内中枢部の黒子役へと、貧乏籤といえばそうもいえる、だが「志」のもっとも要される仕事を、彼が歴任していくようになるのは、意外に早く、入社10年目頃だったようで、それからの語り口は俄然熱を帯びたものとなって、私をなかなかに愉しませてくれた。


私は、彼自身の40年史の語りのまにまに、彼の父親のことをいろいろと訊ねては聞き出す。「志」の生れ出づる処、またその実相を知るに、その父子を知るに若くはない。父と子のそれぞれの像やその関係の像が此方に結ばれれば、無論あくまで私自身にとってというだけのことだが、ほぼ了解に達しうると思うからだ。
彼の父は、高知県安芸郡田野町の出身だという。日中戦争のさなか、当時は田野村だったろうが、私設の開拓団を組織して、満州へ渡ったという。全国的によくあったケースだろうが、ともかく自らその核として行動を起こしたわけだ。第二次大戦の激化するなかでは、満州の特務機関員となって働いたという父は、その情報能力のお蔭で、自ら組織した開拓団を、ソ連軍侵攻の危難を前にいち早く無事帰国させている。終戦の直前のことだったろうが、勿論、特務員の父は一緒になど帰れないから、その後はただひたすら潜伏、あちこちと逃げ回ることになって、やっと故郷へ舞い戻ってきたのは戦後1年経ったころだった、と。

その後の父は、県会議員に打って出たりもしているそうである。一度はめでたく当選して議員を務めるも、なにしろ典型的なムラ型選挙のこと、やがて選挙違反が明るみとなって逮捕者も出たか、やむなく辞職して、大阪へと転身するが、病膏肓、これに懲りないで、ほとぼりが冷めた頃を見計らっては、また故郷へ舞い戻って選挙にと打って出る、こんなことを何度か繰り返したという。お蔭で彼の小学校6年間は、高知−大阪−高知−大阪と、三度の転校生活だったというから家族こそ翻弄されっぱなしで迷惑そのものだ。
ムラの選挙は財産を食い潰す。かなりの富裕家だったらしく、いくつも所有していた山林もほとんどがそのたびに売られ消えてしまったという。大阪での父親の暮しは、逃避行の場所であり、どこまでも仮の宿、最後まで故郷での名誉回復、再興することこそ悲願であった。晩年の父自身は選挙参謀と金庫番にまわり、若い議員を当選させるのに成功して、有為転変の果てにやっと平穏無事を得たという。


安芸郡田野町には、「二十三士の墓」という史跡がある。武市半平太こと瑞山(号)が率いる土佐勤王党が、開国・公武合体派勢力の盛り返しのなか、瑞山は投獄され、支柱を失った志士たちが脱藩を企てるも果たせず、清岡道之助以下22名が、奈半利河原で処刑され露と消えた、その志士たちの墓である。隣村の北川村には中岡慎太郎の生家もある。
土佐のいごっそうには、志士たちのDNAが脈々と流れているのかもしれぬ。いごっそうとしての父の美学と、その父の変奏としての、子の生きざまの美学が、彼自身の語る40年史から私なりの像を結んだ一日だった。
白川静の「志」解説をさらに引けば、詩経に「詩は志の之(ゆ)く所なり。心に在るを志と為し、言に発するを詩と為す」とあり、「志」は古くは心に在る、心にしるすの意味であった。また、「志」は「誌(しるす)」と通用する、と。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏−38>
 はかなしや荒れたる宿のうたた寝に稲妻かよふ手枕の夢    藤原良経

六百番歌合、秋、稲妻。
邦雄曰く、あくまでも創り上げられた、見事な心象風景で落魄の悲しみに、こぼれる涙の露の玉に、紫電一閃が刹那映るという下句は、技巧の粹であろう。右は寂蓮で左の勝。但し判者俊成は、「姿・詞艶には見え侍るを「はかなしや」と置ける初句や、今すこし思ふべく侍らむ」と再考を促しているが、作者はこの儚さの潔さ、すべて計算済みだったはず、と。


 川上に夕立すらし水屑せく簗瀬のさ波こゑさわぐなり    曾禰好忠

好忠集、毎月集、夏、六月はじめ。
邦雄曰く、家集の毎月集では、6月3日あたりに配置されている。魚を獲るための簗をしかけるため水中の塵芥を堰いてあるのか。単純素朴な叙景歌に見えて、原因の夕立を見せず、結果の波だけで暗示する。詞華集の夏に入選、但し「題知らず」で、結句は「立ちさわぐなり」。言うまでもなく家集の「こゑさわぐ」のほうが、水嵩を増した川を活写している、と。


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