松風の音のみならず石走る‥‥

0505120291

−表象の森− 一茶の句鑑賞


  手に取れば歩きたくなる扇かな

文化15(1818)年、56歳の作。なにげなく手にした扇、その扇によって、思わず埋もれていた心の襞が掴みだされたというような感じがある。ふとなにかに向かって心が動いた、ふと歩きたくなったのである。そこには必然的なつながりなどなにもないが、この偶然と見える心の動きは、無意識の深いところでは、なにか確かなつながりになっているのだろうか、そんな気がしてくる句である。


  木曽山に流れ入りけり天の川

前出の句と同じ年の作。木曽の山脈、その鬱蒼としてかぐろい檜の森影に、夏の夜の天の川が流れ入っているという。その傾斜感が鮮やかだ。芭蕉の「荒海や佐渡に横たふ天の川」はおそらく虚構化された自然の景なのだろうが、一茶の句はそこのところがやや曖昧にあり、景の中から滲み出てくる迫力においては一歩譲らざるを得ないが、茂吉流の実相観入からいえば、一茶のほうがそれに近いのではないか。


  虫にまで尺とられけりこの柱

「おらが春」所収、文政2(1819)年の作、一茶57歳。
尺取虫は夏の季語だが、「尺をとる」には、寸法をはかられることから、言外に軽重を問われるという一面がある。虫にまで寸法を測られている柱は、自分の分身なのだろう。心秘かにおのれを省みてなにやら自嘲している風情が色濃くにじむ。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏−47>
 身に近くならす扇も楢の葉の下吹く風に行方知らずも  藤原家隆

千五百番歌合、四百九十番、夏三。
邦雄曰く、秋がもうそこまできている。そよと吹く楢の下風に、扇も忘れがち。初句と結句が対立・逆転するところ、意外な技巧派家隆の本領あり。百人一首歌「風そよぐならの小川の夕暮は」などという晩年の凡作と比べると、まさに雲泥の差。この歌合では左が肖像画藤原隆信、良経判は問題なく右の勝とした。「ならす」は「馴・鳴」の両意を兼ねる、と。


 松風の音のみならず石走る水にも秋はありけるものを   西行

山家集、夏。
邦雄曰く、山家集の夏の終りに近く、「松風如秋といふことを、北白河なる所にて、人々詠みし、また水声秋ありといふことを重ねけるに」の詞書を添えて、この歌が見える。「水にも秋は」が、まさに水際だった秀句表現に感じられて、ふと西行らしからぬ趣を呈するのは、この句題の影響による。それにしても、両句を含みつつ冴えた一首にする技巧は抜群、と。


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